加山又造 かやま またぞう

芸術

掲載時肩書日本画家
掲載期間1992/07/01〜1992/07/31
出身地京都府
生年月日1927/09/24
掲載回数
執筆時年齢65 歳
最終学歴
東京藝術大学
学歴その他京都美校
入社アルバイト
配偶者2歳上 職場結婚
主な仕事米・赤十字、アルバイト「創造美術」出展 、版画、3人展、陶磁器
恩師小林古径 山本丘人
人脈勅使川原宏、奥村土牛、安田靫彦、宮内盛雄、横山操、山本孝、石本正、村越伸、 武見太郎(久遠寺)
備考父:西陣図案家
論評

1927年9月24日 – 2004年4月6日)は、日本画家、版画家である。日本画の伝統的な様式美を現代的な感覚で表現し、「現代の琳派」と呼ばれた。1970年代末からは水墨画にも取り組んだ

1.日本画の東西実習比較
(京都美工)はじめて足を踏み入れた実技教室は、父の図案工房と異なり、膠や、仮張りに塗られた新しい柿渋のすごい匂いが漂う、いかにも絵の勉強の場という感じだった。実習は、八号ほどの小判の美濃紙に、鉛筆で下図を写すことから始まった。この紙には滲み止めのドーサと呼ぶ明ばん水がひいてあって、下絵を描き、墨絵で線描きする。その上に画面に厚みを出すため、黄土に胡粉を加えたものを絵の主題全体に薄く塗り、その下地の上に絵具で描いていくのである。課題は植物写生にはじまり、静物などを描いた。
(東京美術)こちらの日本画の描き方は、京都で取得したものとは異なっていた。用いる用紙は、裏打ちした画仙紙にドーサ(明ばん水)を引いたもので、そこへ直接、鉛筆で植物を写生する。その上に墨で線描をほどこす。線描の筆は、「削用筆」という、やや太めの鋭角の穂の線描専用のものである。そのあと、鉛筆の線を消しゴムで消しとる。その上を、「洋藍」(ようあい)の棒絵の具を溶いたもので隈どりをする。
 使う顔料はすべて透明の水絵の具である。ドーサ引き画仙紙には自由に消しゴムが使えた。京都系の、美濃紙に胡粉入りの黄土で絵に厚みを出す下地つくり、不透明の水干(すいひ)絵具をつかうやり方とは、見事に異なっていた。

2.東京美術の教授(昭和19年:1944)
小林古径先生61歳:伝説では無口で、めったに人と話をされないということだったが、孫ほど年の離れた若い画学生とは、いろいろと絵のことについてお話をしてくださり、また私たちのいうことも聞いて下さった。時折、冗談を言ってはカラカラと笑っておられた。古径先生の、あの乾いた笑い声は本当に魅力的だった。
奥村土牛先生55歳:奥村先生は、古径先生の前では遠慮されたのか、何もおっしゃらなかった。
安田靫彦先生60歳:お体の具合からか学校へ見える日が少なく、親しく話を伺うことができなかった。
山本丘人先生41歳:師であった山本先生は、12人の同志と新しい日本画の団体「創造美術」を結成された。私はここを、自分を試し、発表する場と決め、準備を進めた。

3.食糧難(栄養失調):終戦直後
インフレーションが進み、みるみる物価が上がった。食料の配給も乱れ、遅配、欠配もごく当たり前になった。その頃の私は、丸一日や二日、食べなくても平気だった。しかし、三日目に腹いっぱい食べられたというわけではない。
戦後に栄養失調からくる皮膚病になったことがあった。大切にしていた膠を薄めて煮、岩塩で味付けしたスープをつくって飲んだ。手ごろなコンソメスープというわけである。味は褒められたものではなかったが、そのおかげで栄養失調は治り、ヒフ病もよくなった。

4.日本画の絵具の美しさ
私たち画学生は、当時輸入された西欧の様々の、近・現代的な造形思想とその手法の採り入れに夢中になっていた。私は、動物たちの世界でそれらの手法を自分なりに自由に活用して、何か新鮮なものを作りたいと思っていた。
 加えて日本画の絵具の特性について、新しい角度から研究に意を用いるようになった。日本画の絵具の美しさは、油絵の具やその他のものに比べて独自の際立ったものだと思う。折から、新しい日本画の思潮に呼応して、これまでとは異なった味わいの絵具が、日本が材料展に並び始めた。それが膠の代用である水溶性のビニールであった。この特性を活用して第15回展に出品し、初めて新作家賞を受賞した。

加山又造
生誕1927年9月24日
京都府京都市上京区相国寺東門前町
死没2004年4月6日
東京都
国籍日本の旗 日本
大鰐温泉の旅館「星野リゾート 界 津軽」ロビーの壁画

加山 又造(かやま またぞう、1927年9月24日 - 2004年4月6日)は、日本画家版画家である。

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