前田青邨 まえだ せいとん

芸術

掲載時肩書画家・芸術院会員
掲載期間1968/10/26〜1968/11/21
出身地岐阜県
生年月日1885/01/27
掲載回数27 回
執筆時年齢83 歳
最終学歴
中学校
学歴その他
入社半古塾入門
配偶者三味線師匠妹
主な仕事国学院聴講生、紅児会、国画玉成会、朝鮮、中国、渡欧、芸大教授、法隆寺壁画再現、
恩師・恩人梶田半古 下村観山
人脈尾崎紅葉、小林古径(塾頭)、安田靱彦、今村紫紅、速水御舟、原富太郎、川合玉堂、喜多六平太(裸)、六代目菊五郎、出羽錦、十一代団十郎
備考相撲、歌舞伎画材
論評

1885年1月27日 – 1977年10月27日)は、岐阜県出身の日本画家。妻は荻江節の5代目荻江露友。青邨は大和絵の伝統を深く学び、歴史画を軸に肖像画や花鳥画にも幅広く作域を示した。ことに武者絵における鎧兜の精密な描写は有名である。画壇・院展を代表する画家として長年活躍した。晩年には、法隆寺金堂壁画の再現模写や高松塚古墳壁画の模写等、文化財保護事業に携わった。その遺志は、青邨の弟子の平山郁夫等にも引き継がれている。この履歴書では作品の思い出が中心に展開していた。

1.盟友(古径さん、靫彦さん)の思い出
第1回の文展で落選の憂き目をみたが、紅児会に入会した。この会は今村紫紅さんと安田靫彦さんを中心に当時の新進気鋭が加わっていた。兄弟子の小林古径さんをはじめ速水御舟、中村岳陵などが参加。
 この当時、大した贅沢もしない下宿暮らしをしていても部屋代も滞るような貧乏が続いていた。先輩の古径さんは私のところと近い本郷の弓町にいたが、銀行の支配人をしている親類の家の玄関横の部屋を提供してもらっていたので私のようなことはなかった。それにしてもお互いに懐にお金を持っていることはなかった。二人とも酒は飲める方ではないが、よく本郷から江戸川べりに出て半古塾に通う道を一緒に歩くことがあった。川べりにある屋台のおでんを二人合わせて5銭しかなく、一つか二つずつ実にうまいものだと思って、ゆっくり味わったことを覚えている。
 後援者の所蔵品の所見を訊かれた際、靭彦さんは適当にうまい返事をする。古径さんは目では「ダメ」とはっきりしておきながら「モノ言えば何とか」で一言もしゃべらずにすましている。私はつい「ああ、こいつはいけない」と言ってしまう。所蔵する後援者は私に「どこがいけない」と食って掛かる。困ったものでした。

2.スケッチの大切さ
第3回院展は昭和2年(1927)に開催され、京都で取材した「京名所八題」を仕上げて出品した。これは「ぽんと町」「三条大橋」「清水寺」「上加茂」「愛宕山」「三十三間堂」「祇園祭」「本願寺」の文字通り京八景も、これも鳥瞰的に描いたものだが秀作と問題作などとも言われた。自分としてもっと練り上げて描くつもりだったし、その中の2枚には不満があった。現場でスケッチしたものと、それが出来なかったものとの違いを強く感じた。まともにスケッチをして仕上げたものには今見ても自分の能力であれより描けなかったのだと諦めもつくが、ついそれが出来なかったものには悔いも残る。消してしまいたいような気になる。いまさらながらスケッチの大切さを痛感させられる。
 「祇園祭」のおみこしがワッショワッショと三条大橋を渡るとき急に雨が降ってきて雷が鳴り、見物人がクモの子を散らすようにパッと逃げ出すところは、それを目の前に見ながら素早くスケッチしたもので実感も出ていたと思うし、今見てもその時の光景が目に浮かんで、とても懐かしい。
 ところが「愛宕山」はただ遠くから簡単にスケッチしただけなので迫力がない。建物もいけない。「清水寺」の場合は真っ向から取り組んでスケッチして、あれより描けないところまでやっている。そのぎりぎりまでやるか、やらないかが絵の制作の上にどんな結果をもたらすか、これは後になって思い知らされた。「京名所八題」を見る度に私は当時を懐かしく思い出しながら、いつも心に引っかかって、いささか気分が重くなる。

3.松永安左衛門さんと岸信介首相の肖像画
耳が特徴の松永さんは、描かれるとなると動かないでいるのでつい飽きてきて、大きな声でいろいろな話を始める。だいぶ面白いお色気話も聞かされた。亡き六代目菊五郎の細君のことなども出た。 
 岸さんは冗談を言ってニコニコしているときは大変に愛嬌のある顔だが、チョッと緊張するとカッと目をむき実に凄い顔になる。あっちを向いてもらったり、こっちを向いたり、だいぶ構図に手こずったが結局真正面から描いた。

前田青邨

前田 青邨(まえだ せいそん、本名:前田 廉造1885年1月27日 - 1977年10月27日)は、岐阜県中津川市出身の日本画家。妻は荻江節の5代目荻江露友。三女の夫が美術史家の秋山光和

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