掲載時肩書 | 作家 |
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掲載期間 | 1990/05/01〜1990/05/31 |
出身地 | 大阪府 |
生年月日 | 1923/11/05 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 67 歳 |
最終学歴 | 雙葉学園 |
学歴その他 | 甲南女 |
入社 | 結婚 |
配偶者 | 医者T |
主な仕事 | 離婚、「文藝首都」再婚30歳、直木賞 |
恩師・恩人 | 加藤武雄 、吉田一穂 |
人脈 | 保高徳蔵、臼井栄子、北杜夫、川上宗薫、宇能鴻一郎、なだいなだ、遠藤周作、北原武夫 |
備考 | 父:佐藤紅緑 |
1923年11月5日、兵庫県生まれ。小説家・佐藤紅緑と女優・三笠万里子の次女として出生。異母兄に詩人・サトウハチローと脚本家・劇作家の大垣肇。父紅緑をルーツに、自身も含めハチローら異母兄弟および子孫たちに伝わる「佐藤家の荒ぶる血」を纏めた大河小説『血脈』を十数年かけて執筆し話題になる。 近年は自身の心霊体験に基づく著作も多い。
借金返済のためテレビ出演・全国講演を遂行して戦後の世相の乱れ等を厳しく批判するので父同様「憤怒の作家」と言われ「男性評論家」と呼ばれていた時期もある。小説のほかにも、身の回りの人物や事件をユーモラスに描いたエッセイを多数執筆。「娘と私」シリーズ等が知られている。遠藤周作はエッセイの中で『灘中学校時代、通学電車で乗り合わせた彼女は我々のマドンナ的な存在だった』と書き記している。
1.悪妻の見本 (ソクラテスの悪妻に同情しての本が評判)
私は相変わらず小説を書きながら「半世界」同人費の会費催促をし、支払い熱意のない同人を憤慨した。また、夫Tがやたらに人に金を貸すのを監視し、借りた金を返さない相手を罵り、夫婦喧嘩の絶え間なしという明け暮れだった。そんな時に「ソクラテスの妻」という小説を書いた。この妻・クサンチッペは世界三大悪妻で有名であるが、何かというと夫を口汚く罵るので、弟子がソクラテスに向かっていった。「あなたはどうしてあのようにうるさい奥さんを叱らないのですか?」 するとソクラテスは答えた。「君はめんどりがうるさく鳴くからといって、本気で怒る気がするかね」。私はそのクサンチッペの孤独な憤怒がよくわかった。
この本がきっかけに私は「悪妻の見本」として婦人雑誌などから多くの注文が来るようになり、「悪妻の見本」は次第に「悪妻の横綱」になり、やがて男性攻撃の第一人者という趣になっていく。
2.遠藤周作(同じ年の66歳)
直木賞を受賞して大手出版6社から、「受賞第1作」を注文され、20日以内にその全部に小説を書かなければいけなくなった。朝9時から夕食まで、夜は10時から午前4時頃まで、食事入浴のほかは体力の続くかぎり机に向かっていた。睡眠不足でヘトヘトになっている時、遠藤周作さんから電話がかかってきた。
「日経、読んどるよ」 「そう?えへへ」。照れ隠しに笑う。
「ところでオレはいつ出て来るねん?」 遠藤さんは言った。
「中学時代の友達がお前、いつ出て来るんや、ちっともでてこんなというのや。早う書いてくれよ」
「うん、書いたげる。今書こうとしていたところよ」「そうか。褒めて書いてくれよ。立派な人やと書けよ」「ナンボ出す?」私と遠藤周作さんは同じ年の66歳。いつからか私たちはこんな風になった。
3.生き方(苦労あればこそ愉快)・・あぁ面白かった!の人生に
遠藤さんはよく、「君はなんぼ苦労しても、苦労が身につかん女やなァ」という。仕方なく私は、「そうかなぁ、えへへ・・・」と答える。えへへと笑うのは、それほど苦労したという自覚がないからで、また苦労したと嘆くのが嫌いなタチだからでもある。
私がまだ借金と戦っていた頃、松下幸之助氏と対談したことがあるが、そのとき、松下さんは私の生き方についてこういわれた。
「佐藤さん、それは愉快な人生ですなァ。実に愉快だ」。
私はムッとし、なにをこのじいさん、カネモチなものだから、勝手なことをいう、と思ったものだった。だが、さすが大松下、今になってはじめて私は思う。
「ああ、愉快な人生だったなァ」、と。(松下さん、ごめんなさい) 神は私にさまざまな苦しみを与えられたが、その代わり私を助けてくれる人々もつかわして下さった。それを今、私は神に感謝する。もし私に苦難を与えらなかったなら、私はそれらの人々の愛情と理解に巡り合えなかっただろう。それは人生の宝だ。「ああ、面白かった」。死ぬとき、そういって死ねれば更にいい。今そう思っている。
佐藤 愛子 (さとう あいこ) | |
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ペンネーム | 佐藤 愛子 |
誕生 | 佐藤 愛子 1923年11月5日(101歳) 大阪府大阪市 |
職業 | 小説家 エッセイスト |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 甲南高等女学校卒業 |
ジャンル | 小説 エッセイ |
代表作 | 『青い果実』(1950年) 『ソクラテスの妻』(1963年) 『花はくれない 小説佐藤紅緑』(1967年) 『戦いすんで日が暮れて』(1969年) 『女優万里子』(1974年) 『血脈』(1989年-2000年) 『晩鐘』(2014年) 『九十歳。何がめでたい』(2016年) 『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』(2021年) |
主な受賞歴 | 直木賞(1969年) 女流文学賞(1979年) 菊池寛賞(2000年) 紫式部文学賞(2015年) 旭日小綬章(2017年) |
デビュー作 | 『青い果実』 |
配偶者 | 森川 弘(死別) 田畑麦彦(離婚) |
親族 | 佐藤紅緑(父) 三笠万里子(母) サトウハチロー(異母兄) 大垣肇(異母兄) 杉山弘幸(娘婿) 杉山響子(長女) |
佐藤 愛子(さとう あいこ、1923年(大正12年)11月5日[1] - )は、日本の小説家[2]。大阪市生まれ、西宮市育ち。小説家・佐藤紅緑と女優・三笠万里子の次女として出生。異母兄に詩人・サトウハチローと脚本家・劇作家の大垣肇[3]。甲南高等女学校(現 甲南女子高等学校)卒業[4]。
父親と同様[要出典]「憤怒の作家」と言われ、社会を鋭く批判する姿勢から「男性評論家」と呼ばれていた[5][6][7]。