掲載時肩書 | 三井銀行会長 |
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掲載期間 | 1966/01/01〜1966/01/31 |
出身地 | 神奈川県横浜 |
生年月日 | 1894/01/22 |
掲載回数 | 31 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 三井銀行 |
配偶者 | 高田商会重役娘 |
主な仕事 | 紐育・本店・上海・本店・ボンベイ・海外15年神戸・大阪経験、臨時行政改革 |
恩師・恩人 | |
人脈 | 内村裕之、菊池寛・久米正雄(一高1年上)石黒俊夫・伊藤保次郎(東大同期)、石田礼助、 |
備考 | 健康法(人参生食)、祖父:横浜市長 |
1894年1月22日 – 1974年5月24日)は神奈川県生まれ。実業家、銀行家。元帝国銀行頭取、三井銀行社長、日本棋院総裁。1948年帝銀から第一銀行を分離、1954年三井銀行に行名が戻り同行社長に就任。その際、頭取を社長と改称。以後、会長、相談役を歴任し、三井グループの総帥として活躍した。子飼とされた柳満珠雄、田中久兵衛の両社長時代を経て1968年の小山五郎の社長就任頃まで実質的な決裁権限があったとされている。また、社外にあっても戦後日本の経済界のリーダーとして活躍し、経団連副会長などの要職を歴任した。
1.ニューヨークにおける三井物産の地位
大正8年(1919)の秋、私はニューヨーク出張を命ぜられた。40年近く前には、総合商社といえば三井物産だけで物産は手広く世界各国に店をもっていた。おそらく政府の領事館より支店数が多かったのではなかろうか。ニューヨークでの物産の活動が、いかに大きく活発だったかは、ニューヨークの電信電話会社に払う電報料が、全米の会社中、毎年トップだったことでも分かろう。電信会社は物産というと下にも置かないサービスぶりだった。
そのころ、日本で事業を興すとなると、機械は欧米のどこからか輸入したものだが、その世話はほとんど物産がやっていた。物産が動いて、初めて日本が仕事ができるという状態だった。その意味では、物産は日本産業の初期のパイオニアであった。だから三井銀行がニューヨークに進出しても、実は私なぞ物産の外国為替部の人間になったようなもので、外国為替をはじめ、全ての面で物産が先生であった。
2.野口英世博士のぼやき
ニューヨークの日本人俱楽部には、当時滞米中の野口英世博士が時々来られた。博士は1ドルの日本料理の定食を食べ、若い日本人を相手に将棋を指して帰ることがよくあった。あるとき私は博士が「風邪をひいたときぐらいは梅干でおかゆを食べたいのだが、ワイフがつくらないので・・・」と話されるのを聞いた。博士の夫人は外国人だった。日本俱楽部で日本食を食べ、将棋を指されたのも、そうした家庭の事情があったからではないだろうか。われわれ独身者は「毛色の変わったのを女房にするのは問題だな」などと話し合ったものである。
3.支那料理の食事ルール
大正14年(1924)、今度は上海支店次長を命ぜられ、妻を伴って中国に渡った。食べ物ではやはりシナ料理、これは世界一うまいものだと思った。シナ料理の味覚は、堅くもなく、そうかといってむやみに柔らかくもない、口に入れると、とろけるような、あの料理の仕方にあると思う。また、とうてい食べきれないほど次から次へと料理が出るが、あれは私に言わせれば社会政策?を加味しているのであって、客はそれをみな食べてはいけない。正客が荒ごなしした料理は、もう一つ下の家の子郎党が、もう一度楽しむ。残ったものはさらに下働きの人たちも潤すという暗黙の習慣があるからである。
ただしどうしても残してはいけない料理が一つある。ふかひれだ。シナ料理では中心の料理であるから、これを残すとその時の料理全体がまずかったことになり、主人に対して失礼に当たるからだという。
4.インドのカースト制
昭和5年(1930)秋、インド・ボンベイ支店長を命ぜられた。インドで驚いたのはカースト、すなわち階級制度である。最下級のカーストに属する者は上の階級に上がることはほとんど不可能に近い。床を掃除するカーストはテーブルの上に触れない。机の上からペンを落としても自分では拾わない。床の掃除をしているカーストの者に拾わせるのである。
当時私と一緒にいた鹿児島出身の熱血漢の次長が、ある日店のインド人を集めて、わざわざ自分で床の上の鉛筆を拾って見せ、その因習の弊を説いた。しかし、その後でインド人仲間が食堂で話していたのは「あの次長はどうも生まれが悪いのではないか」ということだったのである。
5.英国とインドの関係(昭和5年:1930頃)
インドは英国の宝庫なり、と昔から言われていたが、何が宝庫なのか、行ってみてよくわかった。当時で3億何千万人という人口だったが、ひどく貧乏な大衆の中に、2,3百万人の大変な富裕階級がいた。中産階級がいないのである。その2,3百万人の中にパーシーというペルシャ系のユダヤ人が、40~50万人いて、これが富裕階級の財力のうち50~60%を占めていた。かれらのほとんどはボンペイに集中して住んでいた。死者はハゲワシに食べさせる有名な習慣のある人種である。
ボンベイはまた金融の中心になっていた。インドの需要する商品は大方英国から買っていたが、代理店はほとんど英国人で、あらゆる意味で彼らはインド経済を搾取していた。
インド総督は、任期は5年ほどだが、これがまた大変な収入を得ていたようである。インドにはマハラジャという王侯が何十人かいた。この王侯はちょうど日本の大名と同じであるが、戦争をしないからすこぶる裕福である。子弟は必ず英国に留学するし、別荘を欧州にいくつか持っている。マハラジャの会計監督や支配人は殆ど英国人がやっていたが、中にはあの手この手でその上前をはねている者もいた。