掲載時肩書 | 民社党委員長 |
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掲載期間 | 1980/01/01〜1980/01/31 |
出身地 | 兵庫県 |
生年月日 | 1915/01/08 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 65 歳 |
最終学歴 | 京都大学 |
学歴その他 | 松本高 |
入社 | 日本発送電 |
配偶者 | 見合副 社長娘 |
主な仕事 | 日発労組書記長、電産闘争、参院、電力再編・松永案に反対、米国視察、電源開発、衆院、民社党 |
恩師・恩人 | 高崎達之助 |
人脈 | 井出一太郎、福永健司、羽仁五郎、石田博英、愛知揆一、阪本勝、西尾末広>西村栄一>春日一幸 |
備考 | 趣味・俳句、父・村長 |
1915年(大正4年)1月8日 – 2000年(平成12年)3月9日)は兵庫生まれ。政治家。電源開発で総務部長を務めた後、1954年(昭和29年)に同社を退社し翌1955年(昭和30年)の衆院選に郷里の旧兵庫5区から右派社会党公認で出馬し当選。以後、連続12選。1959年(昭和34年)に日本社会党から離党し翌年の民主社会党結成に参加、党国対委員長、党書記長、党副委員長を経て1977年(昭和52年)11月、民社党委員長に就任。1985年(昭和60年)4月まで務め、委員長退任後は党常任顧問となり1990年(平成2年)に政界を引退した。春日一幸とは長らく盟友、ライバル関係にあった。民社党委員長(第4代)。
1.日本発送電の労組書記長に
昭和14年(1939)春、京大を卒業して日本発送電に入社した。この会社は前年成立した電力国家管理法に基づく国策会社で、私たちはその第一期生だった。私は総裁室企画課に配属された。終戦を迎えたのは、日発の仮社屋にしていた後楽園の涵徳亭であった。終戦直後の国民的合言葉は、民主化と戦災復興であった。私の履歴もここから始まる。労働運動から政治運動へ、そしてそれらの私の活動の間に、異常なほどに電力事業への執着があった。
本店組合ができたのは、昭和20年の12月8日、ちょうど開戦記念日を選んで結成大会を開いた。委員長には三浦次郎君、書記長には私が就任した。私が本格的な演説をしたのはこの大会が初めて出会った。電車の中で一生懸命、演説の草稿を読み返したことを覚えている。
2.電気産業・闘争ストに暗号を採用
日発労組が結成して間もなく、電気産業全体の労働組合を作ろうという動きが出てきた。この頃は全国の発電、変電、送電を引き受ける日発と、ブロックごとの配電を任務とする9つの配電会社があった。
終戦間もないころの労働運動では「生産管理」というのが最大の闘争手段だった。経営者に代わって労働組合が職場の管理権を握り、工場も運転する。生産自体はストップしないのだから、戦後復旧が何より急がれる当時の日本には適した方法である。ところが進駐軍は「それは所有権の侵害であり不当だ」と言って、干渉し事実上禁止した。そしてストライキなら労働者の権利だからよい、という。電産闘争で停電スト戦術を練り始めたのはそんなイキサツがあったのである。
なるべく需要家に近いところで停電しようとすると技術的に大変難しい。電産協結成後、私は日発本店給電を中心に停電スト戦術委員会を設け、給電の最高スタッフによる全国停電の技術的検討を依頼した。この技術者会議が精密な戦術計画を作り上げ停電ストを成功させたのである。後に電産闘争の戦術委員会に引き継がれ、戦術に見合う暗号指令も作った。全部魚の名前で5分間停電はイワシ、全停電がクジラだ。
3.電力再編・・松永安左エ門案に反対
昭和22年(1947)暮れには過度経済力集中排除法が公布され、23年には電力会社がその対象に指定された。松永安左エ門さんが反日発の先頭に立ち配電会社勢力を糾合し、自称銀座電力局を中心に精力的な工作を進めていた。政府機関の公益事業委員会も設置され、松本烝治氏が委員長に就任したが、松永さんが委員長代理となって露骨に「9分割案」実施に動いていた。
私は当然日発派である。電産要求をひっさげ、電力事業の合理的運営を前面に押し立てて奮闘した。結局政府は「ポツダム勅令」の形で9分割案を実行したのだが、私はそれを聞いて烈火のごとく怒り、吉田首相にも直談判に及んだ。しかし、この電力再編成という世紀の大ゲンカも占領軍工作に後れをとった日発側が敗れ、私もついに「松永民営論」に一敗地にまみれたのである。これほど激しく抵抗した「日発解体」「民営移行」であったにもかかわらず、私はある時期からは「あの時私が松永案に負けていて良かった」とつくづく感じ、当時の仲間にも話すほどの心境変化をきたしているのである。
4.軍隊(下級兵へのいじめ)
鳥取連隊での私の軍隊生活。便所に行くにも「佐々木二等兵、便所に行ってまいります」と大声で怒鳴り、駆け足で戻ってくるとまた「佐々木二等兵、便所から戻ってまいりました」と大声をあげる。風呂だろうが食事だろうが、怒鳴りまくって、何でも競争だ。
叱られるとなると何をやっても叱られる。誰かの鉄砲の台尻にチョッとドロが付いていたというので全員、班長殿に殴られた。そのあげく、「お前たち、罰だ。整理棚に上がれ」と言う。しょうがないから上がったら、「お前たち、そこは何のためにあるのか知っているのか。そんなところに上がる奴があるか」とまた散々叱られる。上がらなければ叱られるし、上がればまた叱られるわけだ。
いろいろな叱られ方があった。ベッドとベッドの端にそれぞれ手をついて、両手で身体を宙に浮かせ、両足でペダルをこぐマネをさせられる「自転車」。腕が疲れて大変だったが、これは軽い方だ。柱に登って、しがみついたまま片手で鼻をつまんで「ミーン、ミーン」と鳴き続ける「セミ」。「うぐいすの谷渡り」というのは、一列に並んだベッドの間を上がっては降り、上がっては降りして谷渡りをする。ベッドの上を歩くことはまかりならん、足をベッドにつけてはいけないのだから、これはきつかった。
こっちがくたくたになっているのに、日曜日ともなると上等兵殿や班長殿は一杯機嫌で外出から戻ってくる。「支那の夜」という歌が大流行しているころで、彼らは「シーナのヨール」などを歌いながら帰ってくる。我々はすっ飛んで行って上等兵殿のゲートルを解き、巻いて、サッと差し上げなければならぬ。まあ、そういうもんだと思ってしまうと腹も立たなかった。
佐々木 良作 ささき りょうさく | |
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『エネルギー経済』1962年9月号より | |
生年月日 | 1915年1月8日 |
出生地 | 日本・兵庫県養父市八鹿町浅間 |
没年月日 | 2000年3月9日(85歳没) |
死没地 | 日本・東京都新宿区 (東京電力病院) |
出身校 | 京都帝国大学(現・京都大学) |
前職 | 日本発送電社員 |
所属政党 | (無所属→) (右派社会党→) (日本社会党→) 民社党 |
称号 | 正三位 勲一等旭日大綬章 衆議院永年在職議員 法学士 |
選挙区 | 兵庫県第5区 |
当選回数 | 12回 |
在任期間 | 1955年2月27日 - 1990年1月24日 |
選挙区 | 全国区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1947年5月3日 - 1953年5月2日 |
第4代 民社党中央執行委員長 | |
在任期間 | 1977年11月28日 - 1985年4月23日 |
佐々木 良作(ささき りょうさく、1915年(大正4年)1月8日[1] - 2000年(平成12年)3月9日)は、日本の政治家。位階は正三位。雅号は良素。
民社党委員長(第4代)、衆議院議員(12期)、参議院議員(1期)を歴任。
元鹿島建設副社長鹿島新吉は岳父[1]に当たり元中央大学総長の升本喜兵衛は実兄[1]、甥に初代養父市長の佐々木憲二がいる。