掲載時肩書 | 作家 |
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掲載期間 | 1977/01/01〜1977/01/31 |
出身地 | 北海道 |
生年月日 | 1907/05/06 |
掲載回数 | 31 回 |
執筆時年齢 | 70 歳 |
最終学歴 | 京都大学 |
学歴その他 | 四高、九州大 |
入社 | 毎日新聞 |
配偶者 | 学生結婚 |
主な仕事 | 台北、脚本、詩、玉音記事、「創造美術」誕生 、中国、韓国、ロシア |
恩師・恩人 | 佐藤春夫 |
人脈 | 尾崎橘郎、小野小十郎、上村松篁、大佛次郎、大西良慶、江上波夫、平山郁夫、 |
備考 | 代々医業 |
1907年(明治40年)5月6日 – 1991年(平成3年)1月29日)は北海道生まれ。小説家。小説は同時代を舞台とするもの(『猟銃』、『闘牛』、『氷壁』他)、自伝的色彩の強いもの(『あすなろ物語』、『しろばんば』他)に加え、歴史に取材したものに大別される。歴史小説は、日本で特に戦国時代(『風林火山』、『真田軍記』、『淀どの日記』他)、中国ではとりわけ西域を題材にした(『敦煌』、『楼蘭』、『天平の甍』他)ものを多く描いた。巧みな構成と詩情豊かな作風は今日でも広く愛され、映画・ドラマ・舞台化の動きも絶えない。
氏の毎日新聞・記者時代の思い出話は興味深かった。
1.「玉音を拝して」のトップ記事
8月15日午前の会議が終わって、社会部の席に戻ると、デスクの当番に当たっている斎藤栄一氏より、「玉音を拝して」のトップ記事を書いてくれないかと言われる。よし、書こうと答える。
見出しは「玉音ラジオに拝して」とした。
―15日正午、それはわれわれが否三千年の歴史が初めて聞く思いの「君が代」の奏でだった。
一億団結して己が職場を守り、皇国再建へ新発足すること、これが日本臣民の道である。われわれは今日も明日も筆を執るー 編集局はがらんとして、記者は数えるほどしかいなくなった。
2.「創造美術」結成の特ダネ
昭和22年(1947)秋のある日、東京本社の学芸部・美術記者のU君から、日本画で最も期待されている山本丘人や上村松篁ら新進作家たちが、東京、京都呼応して、官展に反旗を翻し、在野団体を結成する計画を密かに進めているらしい。そちらでも京都側に当たって欲しいとの要請があった。
私は東京に比べて京都側の封建的な徒弟制度の厳しさを知っているので、翌日上村松篁氏を訪ねて、この新団体結成の話を切り出すと、非常に驚いてどうしてそれを知ったのか、とにかくいまそれを新聞に書かれては大変なことになる、伏せておいてくれ。その代わり書かれてもいい時期が来たら必ず貴方に知らせるということだった。―これを両者は守り、特ダネとなったが、このエピソードは上村氏も「私の履歴書」に書いているー
3.父と子の「死後対話」
父は34年(1959)5月、私が52歳の時に81歳で他界した。葬儀が営まれた夜、死者である父と対面し、私は心で対話した。―私に言い遺しておくことはありませんか。
―ないね。あるとすれば、一つだね。お前は若い若いと思っているだろうが、わしが居なくなると、次はお前の番だな。今まで衝立になって、死が見えないようにお前をかばってきたが、もうわしが居なくなったからね。まだ親父が生きているんだというような考えはできない。―気づいていますよ。見晴らしがよくなったとー
―まだお母さんが半分、お前をかばっている。親というものは、そういう役割しかできないものだね。死んだ今になってみるとそういうことがよくわかる。-
4.作家の人間完成はあるか?(70歳のとき)
ある雑誌社から、どういう人間に完成していきたいかという質問を受けた。が、それには答えられなかった。小説を書くということは、必ずしも自己完成の修行の道ではないからである。一作を書くことによって、それだけ作者である人間が高まっていくといったようなものではない。
作家の場合、人間と作品の関係は複雑である。作家の完成は、言うまでもなく作家として完成を意味するが、その作家としての完成が、そのまま人間としての完成に繋がっているとは言い切れない。立派な作品を生み出したから、作者の方も人間としてそれだけ立派になっているとは言えない。逆な言い方をすれば、人間が立派になったから、それだけ作品が良くなるというものでもない。因果なことである。
井上 靖 (いのうえ やすし) | |
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1955年 | |
誕生 | 1907年5月6日 日本・北海道旭川町 (現:旭川市) |
死没 | 1991年1月29日(83歳没) 日本・東京都中央区築地(国立がんセンター)[1] |
墓地 | 伊豆市の熊野山墓地 |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 京都帝国大学文学部哲学科(美学) |
活動期間 | 1936年 - 1991年 |
ジャンル | 小説 |
代表作 | 『闘牛』(1950年) 『あすなろ物語』(1954年) 『氷壁』(1957年) 『天平の甍』(1957年) 『敦煌』(1959年) 『風濤』(1963年) 『おろしや国酔夢譚』(1968年) 『本覺坊遺文』(1981年) 『孔子』(1989年) |
主な受賞歴 | 千葉亀雄賞(1936年) 芥川龍之介賞(1950年) 芸術選奨(1958年) 日本芸術院賞(1959年) 文藝春秋読者賞(1960年) 毎日芸術賞(1960年) 野間文芸賞(1961年・1989年) 読売文学賞(1964年) 日本文学大賞(1969年・1982年) 文化勲章(1976年) 菊池寛賞(1980年) 朝日賞(1985年) 贈正三位・勲一等旭日大綬章(1991年、没時叙位叙勲) |
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井上 靖(いのうえ やすし、1907年(明治40年)5月6日 - 1991年(平成3年)1月29日)は、日本の小説家・詩人。主な代表作は「闘牛」「氷壁」(現代小説)、「風林火山」(時代小説)、「天平の甍」「おろしや国酔夢譚」(歴史小説)、「敦煌」「楼蘭」(西域小説)、「あすなろ物語」「しろばんば」(自伝的小説)、「わが母の記」(私小説)など。
1950年(昭和25年)「闘牛」で芥川賞を受賞、私小説・心境小説が主流だった敗戦後の日本文学に物語性を回復させ、昭和文学の方向性を大きく変えた戦後期を代表する作家のひとり。劣等感から来る孤独と人間の無常を、時間と空間を通した舞台と詩情あふれる文体・表現によって多彩な物語のなかに描き、高い評価を得た。10代から83歳の絶筆まで生涯にわたって詩を書きつづけた生粋の詩人でもある。
1950年代は、いわゆる中間小説とよばれた恋愛・社会小説を中心に書いたが、徐々にその作風を広げ、1960年代以降は、中央アジアを舞台とした西域ものと呼ばれる歴史小説、幼少期以降の自己の境遇を基にした自伝的小説、敗戦後の日本高度成長と科学偏重の現代を憂う風刺小説、老いと死生観を主題とした心理小説・私小説など、幅広い作品を手掛けた。
まだ海外旅行が一般的でない昭和期に、欧米の大都市からソ連、中央アジア・中東の秘境まで数々の地を何度も旅しており、それを基にした紀行文や各地の美術評論なども多い。
1980年(昭和55年)には日中文化交流会会長、1981年(昭和56年)には日本ペンクラブ会長に就任し、以後、文壇・文化人の代表としても国内外で積極的な文化活動を行った。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は正三位・勲一等。