掲載時肩書 | 東大名誉教授 |
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掲載期間 | 1970/05/21〜1970/06/10 |
出身地 | 愛知県 |
生年月日 | 1894/12/26 |
掲載回数 | 21 回 |
執筆時年齢 | 76 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 八高 |
入社 | 大学院 |
配偶者 | 佐佐木信綱娘 |
主な仕事 | 日本の詩歌、欧州文学、校本万葉集、契沖全集、一高、東大、欧米旅行、和歌史総論、慶応、 日本文学協会 |
恩師・恩人 | 日比野寛校長、佐佐木信綱 |
人脈 | 麻生磯次、藤村作、矢代幸雄、アーサー・ウィリー、サンディス・デッカー、キーン、吉田精一 |
備考 | 実家・代々庄屋 |
1894年12月16日 – 1976年3月2日)は愛知県生まれ。国文学者。文学博士。佐佐木信綱の三女三枝子と結婚。考古学者契沖研究に始まり、国学、『万葉集』、和歌など古典文学の全体について基礎的研究を行った。自らも「心の花」に所属する歌人でもあった。戦時体制下では日本文学報国会国文学部会幹事長として盛んに民族精神を鼓吹したため、戦後、その戦争責任を追及されたが、長く国文学界に君臨した。郷里の東浦町中央図書館には久松と久米常民についての特別資料室があり、久松の編著作書約200冊や直筆原稿約400点が展示されている。
1.万葉集註釈書の総編集
明治45年(1912)のころから、佐佐木信綱先生が中心となり万葉集諸本の校訂が行われた。千田憲氏や武田祐吉氏も加わり、諸本の校訂を始められ、数年かかってそれがほぼ出来上がった。それには諸本校訂だけでなく、万葉諸註釈書に見える本文批評や訓に関する諸説を収集してあげるということになり、それを私に委嘱された。
卒業論文で契沖を扱い、契沖の万葉代匠記を調査したりしていたので、私にその仕事が回って来たらしい。とにかくお引き受けして、まず万葉集註釈書の調査を始めた。万葉の注釈書は多いが、刊行されたものは少ないので写本もしくは木版本が多かった。それらを諸方から借りたりした。とにかく、そういう調査を行って万葉注釈書のうち20種ほどを選び、その諸説を簡明に記すことになった。万葉集註釈書も巻一から巻四ほどまでは20種ほどあったが、巻が進むと注釈書の数もへり、後の巻では6,7種になって進行も早くなった。とにかくそんな仕事をしているうちに2年ほど経ち、大体終わった。それで諸註釈書の諸本について解説を書いたのを、後に校本万葉集が刊行される時に「万葉集註釈書の研究」として納めた。
2.日本文学大辞典の編纂
大正13年(1924)ごろ、藤村作博士が中心となって日本文学大辞典の編纂企画が進められた。新潮社で刊行することとなり、毎週木曜日の夜に集まり、まず項目選定から始めた。項目選定には半年ほどかかり、それから執筆依頼となる。新潮社の背景があるので近代文学の項目は作家や評論家も多く執筆され、質量ともに大きな文学辞典となった。原稿が次第に集まって見るとみな優れた原稿ではあるが、文体、形式がまちまちである。それを形式の上で整えねばならない。講義のある時はまとまった時間がとりにくいので、昭和7,8年(1933)であったか夏休みになると信州戸倉の笹屋に研修室のものが集まって原稿整理した。
信州戸倉や伊豆伊東での合宿を数年間にわたり編纂し、これを藤村作編として世に出たが、当時の国語国文学界の大家、新進の力を総結集してできたこの年代の記念碑的な辞典であった。刊行は昭和10年前後だった。
3.欧米の日本文学研究家
昭和10年4月、東京を出発し、4月4日神戸から香取丸に乗って欧米の旅に出た。ロンドンに着いたのは5月半ばであったが、うら寒く、私の下宿した若目田氏の家ではストーブを焚いて温まった。そのころロンドンにおられた矢代幸雄氏の紹介で源氏物語の英訳をされたアーサー・ウェリー氏と矢代氏と井上思外雄氏との4人で会食を共にした。この優れた日本研究家に会って話ができたのは喜ばしいことであった。
ドイツではベルリン大学の日本研究室に出入りし、各大学の日本研究室も訪ね、教授に会った。ハンブルグ大学のフロンツ教授のお宅を訪れ、氏の東大教授時代の思い出を語り合うこともできた。日本に帰って来ていつしか、30余年たったが、現在では日本文学研究家は、サイデンステッカー氏やドナルド・キーン氏、アイヴァン・モリス氏やオスカー・ベンル氏らが代表的は研究家になっている。その研究も精緻になってきており、研究家の数も多くなり、日本文学の世界的位置も高くなっている。日本文学が世界的視野の中で理解され、その価値を問われるのもこれからであると思う。