中村鴈治郎 二代目 なかむら がんじろう

映画演劇

掲載時肩書歌舞伎俳優・芸術院会員
掲載期間1973/03/29〜1973/04/23
出身地大阪府
生年月日1902/02/17
掲載回数26 回
執筆時年齢71 歳
最終学歴
小学校
学歴その他
入社4歳(初舞台)
配偶者芸妓17歳
主な仕事子供歌舞伎、青年歌舞伎、 扇雀→翫雀→鴈治郎、俳優(100本)
恩師中村福助(二世梅玉)
人脈川口松太郎「父・芸道一代男」、白井松次郎 、長谷川一夫(義弟)
備考競馬,麻雀 初代は3男坊
論評

1902年(明治35年)2月17日 – 1983年(昭和58年)4月13日)は大阪生まれ。歌舞伎役者。上方歌舞伎の伝統を継承し、立役から女形まで幅広い芸域を誇ったが、特に父・初代鴈治郎譲りの二枚目役においてその本領を発揮した。初代中村鴈治郎の二男。幼少期は子供芝居で、やや長じては青年劇中村扇雀一座の座頭として活躍する。1924年(大正13年)に大歌舞伎に復帰し、以後初代鴈治郎・二代目實川延若・十二代目片岡仁左衛門などのもとで修行。当時は主に女形を務めた。扇雀と共に映画やテレビへ活躍の場を移し、それから約10年の間、映画・ドラマ俳優としての活動が主となる。とりわけ映画では大映を中心に目覚しい活躍を見せた。「履歴書」では役者と花柳界との関係を詳しく紹介してくれていた。

1.林家の家柄
出身の林家は昔、代々大阪の遊郭新町で扇屋という遊女屋をしていました。扇屋は芝居の「廓文章」で有名な“扇屋夕霧”のあの扇屋なのです。父が生前書き記した「鴈次郎自伝」によりますと、扇屋は新町随一の大籬(おおまがき)で、大通りの一角に一町四方の大城郭をなして、群小の置屋、揚屋を睥睨していました。使用人は太夫、遊女、天神、はしため、下男をあわせて百八十人、城郭の中には、太夫が一人身受けされるごとに建ったという土蔵、夜具蔵、衣装蔵、道具蔵、正面蔵、新蔵、紙蔵が並立していました。
江戸の吉原、京都の島原と並んで、全盛時代は西国大名や侍が参勤交代の折々に足を入れ、大名茶屋と言われたそうです。それに京都島原の角屋、大阪北新地の平鹿などは親類に当たっていました。

2.父の結婚エピソード
父は明治の中ころ結婚しましたが、そのころ大阪南地の「紀の庄」という置屋に梅菊(本名・畠せん)という芸者が居まして、これが父と良い仲になり結婚したのです。つまり私の母です。ところが当時この梅菊を見染めている四国のお大尽がいまして、これと鞘当になったのです。そのお大尽は浅井某といって、土佐の大土地をもっているという大金持ちで、その浅井がどうでも梅菊を身受けするというのです。そこで梅菊は、「実はわて鴈次郎はんと夫婦約束してますのや」と言いますと、浅井は鷹揚にこうおっしゃるのです。
 「ええやないか、ゴチャゴチャ言わんと一年だけ土佐へ来ておくれんか。その代わり一年たったらワシが仲人になって鴈次郎と添わしてやる」と。これには父も梅菊も参って、一年だけ土佐に行くことになりました。
 で梅菊は、「だんな、一年でござんすえ」と確認をして、父に「土佐へ一年だけ行くさかい、待っておくれやす」と念を押して旅だったといいます。

3.若い時代のけいこ
稽古ごとは役者につきもので、私は少年歌舞伎時代からいろいろなものを稽古しました。まず踊りは山村春、楳茂都(うめもと)扇性、西川石松さん、義太夫は三代目鶴沢清六さん、能は川島万次郎さん、鼓は先代望月太左衛門さん、といったぐあいです。いちばん印象に残っているのは踊りの西川流の家元石松さんです。石松さんは名古屋のお方ですから毎年夏、芝居が休みのとき泊りがけで名古屋に行きました。石松さんは、やかましやで気に入らないと大きな音を出してその場面を何回もひいておられました。
 はじめが「道成寺」、それから「鏡獅子」「浅妻船」という順で、ずいぶんたくさん習いました。夏のことで、何回も繰り返されると滝のように汗が流れます。汗を舞台へ落すと後でシミになるといってイヤな顔をするので、私は浴衣を10枚用意していきましたが、毎朝7時から夕方まで踊るので、10枚でも間に合いません。「道成寺」のまり唄のところなど何回もやり直すとポタポタ汗が落ちます。その度に手縫いで拭き取るという繰り返しですが、苦しんで教わったものはよく覚えております。

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