中村真一郎 なかむら しんいちろう

文芸

掲載時肩書作家
掲載期間1993/05/01〜1993/05/31
出身地東京都
生年月日1918/03/05
掲載回数30 回
執筆時年齢75 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他一高
入社東大講師
配偶者記載なし
主な仕事幼児ー開成、一高、東大まで影響者、小学校先生から、学友、先生たち20名以上
恩師・恩人辰野隆教授
人脈加藤周一、福永武彦、矢内原伊作、芹沢光治良(毎日3枚)、芦田均、堀辰雄、高見順、立原道造、横光利一、中島健蔵、小林秀雄、岸田国士
備考父・貿易商で海外文明を指導
論評

1918年(大正7年)3月5日 – 1997年(平成9年)12月25日)は東京生まれ。小説家・文芸評論家・詩人。東京帝国大学の仏文科に進学。卒業論文はネルヴァルを選ぶ。在学時に堀辰雄の知遇を得て、終生師事した。プルーストと『源氏物語』という、中村の二大文学的源泉への関心はこの時代にはぐくまれた。早くから創作を志し、在学中には劇詩の習作も試みた。福永武彦・加藤周一たちとともに「マチネ・ポエティク」のグループをつくり、押韻定型詩の可能性を追求した。戦後彼らの試みは詩壇から白眼視されたが、中村は最晩年までその試みを続けた。この「私の履歴書」では幼児から大学を出るころまでに人間形成に大きな影響を与えた人物を書いていた。

1.新しい人生観
私の父は冒険的企業家で、生涯を社長と浪人とを繰り返していた。父の死んだ時には、私は限定相続という措置をとらされた。それで16歳からは、学資だけでなく、衣食住すべてを自分で稼いで生きていかねばならない境遇に追い込まれた。私は自分に合った職業として文学を選ぼうとし、しかし小説だの詩を書く仕事が、医者や裁判官のように、明らかに社会に役立つものではないのではないか、そしてもし文学と、人生に役立つ目的を見つけ出そうとすると、どうすればよいか悩みぬいていた。
 すると開成中学の英語の石田先生が、「人生は出世したり、闘争したりするためのものではなく、一生を魂の平和を求めて生きるためにあるのだ」と西洋の有名な詩を採り上げて、納得できる説明をしてくれた。

2.芹沢光治良氏の私への助言
作家になろうとすると、卒業と同時に売文によって生活が成り立つ見込みはまずないし、多分何十人の志望者のうち、運のいい者がひとり、認められて文壇入りするので、卒業後、原稿が売れて生活ができるまでの間、財産のない人間はどうやって生計を立てるか、仲間たちと常に議論していた。そうした議論の末、17歳の私は、先輩の作家に相談しようと、当時人気作家だった芹沢光治良氏を、友人と二人で訪ねた。
 芹沢さんは私たちの質問に対して、「毎日、きちんと3枚、原稿が書けるなら、作家になりたまえ。それができなければやめたまえ」という、非常に実用的な忠告を与えてくれた。私は寮に帰る途中で、「作家になることに決めた」と言い、のん気なボエミアン気質の同行者は「とても無理だ。やめた」とあっさり諦めた。戦後、私が文壇に出てからも、芹沢さんは常に温かく見守ってくださり、広い視野から励ましてくれた。

3.辰野隆教授の弟子たち
東大仏文科は辰野隆教授の創設した学科であって、先生の寛大な人柄が多くの俊秀を膝下に集めたことで、文化界に知られていた。先生ご自身、「僕の弟子には、日本一の評論家と日本一の詩人がいる」と自慢されるのが常だったが、それは小林秀雄氏と三好達治氏で、この二人も研究室へ顔を出す時は、慈父に接するような態度だった。
 私は入学そうそう、新入生歓迎会の席上で、泥酔して銚子のはかまに酒を満たし、先生に突き付けて、「おい、辰野、おまえに文学が判るか」とからんだと、翌日、田島助手から叱られた。先生はそうした若者の無礼な態度に対して常に寛容で、研究室で学生を友人のように扱い、文学論を戦わすのを喜びとしていたから、多くの学生はその間に才能を啓発されていったのだった。
 先生が定年退官の教室で、小林秀雄さんが謝恩演説をしたが、そうした先生の態度を、対話の間に相手の本性を引き出すソクラテスの「産婆術」に比したのは、けだし名言だった。
 やがて、退官と同時に、全く寝耳に水に、東大講師に採用してくれ、将来、仏文学の主任教授となるコースに乗せた。私はその人選が不適任で、不公平であると抗議したがきかれなかった。

中村 真一郎
なかむら しんいちろう
1948年
誕生 1918年3月5日
日本の旗 日本東京府東京市日本橋区箱崎町(現:東京都中央区
死没 (1997-12-25) 1997年12月25日(79歳没)
日本の旗 日本・静岡県熱海市
墓地 静岡県森町の随松寺
職業 小説家評論家詩人脚本家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
教育 学士文学
最終学歴 東京帝国大学仏文科
ジャンル 小説文芸評論ラジオドラマ
文学活動 マチネ・ポエティク
第一次戦後派
代表作 『死の影の下に』5部作(1947年 - 1952年)
『雲のゆき来』(1966年)
『頼山陽とその時代』(1971年)
『四季』4部作(1975年 - 1984年)
『蠣崎波響の生涯』(1989年)
主な受賞歴 毎日出版文化賞(1974年)
谷崎潤一郎賞(1978年)
日本文学大賞(1985年)
藤村記念歴程賞(1989年)
読売文学賞(1990年)
勲三等瑞宝章(1994年)
配偶者 新田瑛子(死別)
佐岐えりぬ
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中村 真一郎(なかむら しんいちろう、1918年大正7年)3月5日[1][2] - 1997年平成9年)12月25日[2])は、日本小説家文芸評論家・詩人。旧字体の「眞一郎」名義での出版もある[注釈 1]

加藤周一らと共に「マチネ・ポエティク」を結成し、共著の時評『1946・文学的考察』で注目される。『死の影の下に』(1947年)で戦後派作家の地位を確立。ほかの作品に『四季』4部作(1975~84年)など。

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