中村白葉 なかむら はくよう

学術

掲載時肩書ロシア文学者
掲載期間1967/05/05〜1967/06/05
出身地兵庫県
生年月日1890/11/23
掲載回数32 回
執筆時年齢77 歳
最終学歴
東京外国語大学
学歴その他名古屋市立 商業
入社鉄道院
配偶者浅草娘
主な仕事忠誠堂書店、「罪と罰」、読売、朝日新聞、電通、トルストイに傾注「アンナカレーニナ」「戦争と平和」チエーホフ
恩師八杉貞利 教授
人脈米川正夫(同期)、志賀直哉、窪田空穂、前田晁、加藤武雄、木村毅、志賀直哉
備考庶子(実母)→義母に
論評

1890年11月23日 – 1974年8月12日)は兵庫県生まれ。ロシア文学者。卒業後、鉄道院に勤めるが文学への志が強く、辞職、雑誌編集者となる。24歳の時、新潮社にいた投書仲間の加藤武雄より「罪と罰」の翻訳依頼を受け、1914年、それまで内田魯庵の英語からの重訳で読まれていたのを、初めてロシア語からの邦訳を刊行する。1915年、朝日新聞社に入るが、翌年、貿易商野沢組のロシヤ部に二年間勤務。1919年、退職し、『アンナ・カレーニナ』を翻訳、また1922年頃、福岡日日新聞に自伝的小説「蜜蜂の如く」を連載した。1923年の震災後、日本電報通信社文藝部に三年半勤務するが辞職、以後ロシア文学の翻訳に生涯を捧げる。トルストイ、チェーホフ、プーシキンの作品は、その大半を手がけた。『アンナ・カレーニナ』は何度も改訳を行った。

1.読書癖が高じて回覧雑誌
明治37年(1904)4月、私は家が商家だった関係で、市立名古屋商業学校へ入学した。私の読書癖は伸びる一方で、それも読むだけでなく、いつか書く方へも広がっていった。名古屋商業の予科一年は夢のように過ぎ、本科一年も半ばすぎたころだった。愛知一中の2,3の友人に商業学校の仲間を加えて、各自筆で書いたものを回覧雑誌として、回し読みを始めたが、後には、四六判2,30ページの「早苗」を出すまでに病が高じた。たまたま仲間に印刷屋の息子があって便宜だったのだが、さすがに長くは続かず、お定まりの3号で潰れてしまった。しかしそのころから、私は投書というもう一つの方法を覚え始めたのだった。

2.一期一会の友・米川正夫
明治42年(1909)、私は東京外国語の露語科に入学し、その新入生30人中6人がロシア文学の研究希望だった。その6人の中に、私にとって一期一会の友、米川正夫がいたのだった。
 彼は口が重かった。私は彼より年齢は一つ上だが、どちらかといえば軽口の方であった。しかし私自身、孤独に弱く、にぎやかずきの楽天家だったので、米川の、いつも何が面白いのだといったような青白きインテリぶりが、時代のヒーローのように思われて、私は心ひそかに彼を尊敬していた。
ある日、米川がしみじみと次のような述懐を漏らしたことがあった。「僕ね。こんなことうぃうとキザのようだけど、神様でも何でもいい、お前なんかに文学の才能なんてあるものかと、一つドカンとやってくれるといいと思うんだがな」。「どうしてそんなことを言うんだい」と私はきいた。「だって、僕、どうしても自分の才能が信じられないんだよ。考えると、とても不安なんだ。ありもしない才能を、もしあるように思い込んでいい気になってるとしたら、ずいぶん滑稽であり、悲惨な話だからねぇ」と。
これを聞いて私は、脳天をガツンとやられたような気がした。わずかな投書の成功なんぞに思い上がっている自分の幼稚さ、単純さをいやというほど思い知らされたからであった。

3.トルストイの墓前で
昭和35年(1960)11月18日朝、モスクワの宿舎を出て、200キロほど西にあるヤースナヤ・パリャ―ナ(トルストイの旧居)に正午をまわったころ着いた。私はトルストイを心から尊敬している。この人を知ってほぼ60年、この人によって教えられ、また、わが生涯を生かさされてきたようなものであるから。
 晩年のトルストイ夫妻・・・世界の偉人とあがめられた夫と、天下の賢夫人とたたえられたソフィア夫人と、この二人が愚にもつかないいさかいを続けて、人間として免れない凡愚の一面をさらけ出して生きてきた生活が、今日残された山ほどの著作以上に、私たちをひきつけるもののあるのは、なぜだろう?
 人間には誰にも、表に見せている面と、人にも自分自身にも見せない、あるいは見せるに忍びない陰の面とがある。トルストイにもそれはあった。そしてこの偉人は、終生この陰と闘って死んだ。こう考えると、トルストイは決して、いわゆる幸福な人ではなかった。いやむしろ耐え難い苦悩の人だったと私には思われる。

1949年

中村 白葉(なかむら はくよう、1890年11月23日 - 1974年8月12日)は、ロシア文学者。

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