中村元 なかむら げん

学術

掲載時肩書インド哲学者
掲載期間1985/05/01〜1985/05/31
出身地島根県
生年月日1912/11/28
掲載回数30 回
執筆時年齢73 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他一高
入社助教授
配偶者学者・娘 医師
主な仕事「インド古代史」「東洋人の思惟方法」「仏教語大辞典」「原始仏教の思想」東方学院設立
恩師宇井伯寿 教授
人脈荒井正明(同期)、岩波茂雄、和辻哲郎先生、鶴見俊輔・和子、鈴木大拙、大河内一男学長、
備考祖父:鳥取群長
論評

1912年(大正元年)11月28日 – 1999年(平成11年)10月10日)は島根県生まれ。日本のインド哲学者、仏教学者。サンスクリット語・パーリ語に精通し、初期仏教の仏典などの解説や翻訳に代表される著作は多数にのぼる。「生きる指針を提示するのも学者の仕事」が持論で、訳書に極力やさしい言葉を使うことでも知られた。

1.インド哲学(恩師:仏教源流から学べ)
昭和11年(1936)3月、東京大学のインド哲学科を卒業した私が、宇井伯寿先生のお宅に伺った時のことであった。先生はかねて、卒業したら「申し聞かせる」ことがあると言っておられたので、何を叱られるのかと思っていたら、そのとき次のような話をされた。
 「仏教研究者が最初から仏教の研究に入って行くと、なかなか古来の宗派の立場に立った教義学の考えから脱出できないものである。学者は、若いうちにその源流であるインドの思想を研究して、視野を広くしておくと、仏教を客観的に見ることができる。日本人の学者あるならば、かならず後には伝統的な仏教を手掛けるようになるから、若いうちにはインド思想の勉強をするがよい」と。
そして研究の第一歩としては、インドの本流の哲学思想であるヴェーダーンタ哲学を手掛けるように勧められた。これが私の学者としてのその後の歩みを定めた、本質的な方向づけであった。

2.指導教授が悲鳴(博士論文を手押し車で運ぶと)
大学院に入って間もない、昭和12年(1937)に盧溝橋事件が勃発すると、すぐ松江63連隊に召集された。背が低いので「輜重輸卒」に回され、最下級の兵卒で、馬を引いていた。外地に出征することになり、神戸の港まで来たが、よほど弱っていたらしく軍医に見つけられ、姫路の陸軍病院に入れられ、数か月後に解除になった。
 間もなく学校に戻った。研究の方はそれでもともかく少しずつ進歩した。やがて先生方が相談されて、私の研究を学位論文として提出せよと言われた。文学博士という学位は、70,80にならなければもらえないものと相場が決まっていたのに、これは、耳を疑うような破天荒なことであった。
 しかしこれは私にとって大きな励みなった。例の無い扱いを先生方がされるならば、私の方でも例の無いほどのものを書かねばならない。私は一生懸命勉強した。まとめて、原稿用紙に書いたら、とても全部を一度に手に持つことはできなかった。弟に手伝ってもらって文学部の事務室まで手押し車で運んで行った。
 あとで、その全量を見て、宇井先生は「うわぁ、これは読むのが大変だ」と言って悲鳴をあげられた。先生に悲鳴をあげさせたのは、この時、一度だけである。
 戦時中の昭和18年3月末で、私は東京大学助教授に任ぜられ、インド哲学を講義することになった。若い助教授というだけでも異例であるのに、文学博士というのは驚きであり、東大新聞に記事が出てしまった。

3.仏典の翻訳・注釈(私の留意点)
仏典は難しいとか、分かりにくい、とかいう嘆きの声をよく耳にする。しかし、そんなはずはない。少なくとも初期の聖典は、パーリ語以前の、古代東部インド語とマダガ語とか呼ばれる民衆の俗語で書かれていたのだから、民衆は聞いただけですぐに分かったに違いない。何のことだか分からないような難しい表現で訳す人がいたならば、原趣意をゆがめているのである。
 私は、なるべく耳で聞いて分かるような訳にしたいと思って努めた。古代インド人は、この経典を耳で聞いただけですぐ分かったはずである。訳文には常用漢字以外の漢字はほとんど使わなかった。
 私の平易な訳というものは、原文に無理を加えたものではなくて、かえって原文に近い直訳なのである。これは原典と対照されるならば、文学的、教育的には差し支えないが、学問的には採用できない。

中村元

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