中山善郎 なかやま よしろう

石油・石炭

掲載時肩書コスモ石油会長
掲載期間1992/11/01〜1992/11/30
出身地東京都
生年月日1914/02/12
掲載回数29 回
執筆時年齢78 歳
最終学歴
福島大学
学歴その他福島商業高
入社堀尾甚商店
配偶者見合(津田塾)
主な仕事白石基礎工事、見習士官、大協石油+アジア石油+丸善石油=コスモ石油、日本アラブ協会
恩師・恩人堀籠逓之介、大谷晴雄、広木文雄医師
人脈丸田芳郎(長野中)、密田博孝、長谷川隆太郎、池浦喜三郎、平松守彦、斎藤慎彌、富士真奈美、金子兜太、小池百合子
備考絵画・俳句、アラブ諸国との友好
論評

1914年(大正3年)2月12日 – 1996年(平成8年)1月25日)は東京生まれ。実業家。1943年(昭和18年)- 大協石油に入社する。1975年(昭和50年)- 同社の社長となる。1980年(昭和55年)- アジア石油を傘下に収める。1986年(昭和61年)- 丸善石油と合併して、コスモ石油を誕生させ、同社社長。日本アラブ協会会長等を歴任する。1987年(昭和62年)- コスモ石油会長。1988年(昭和63年)- 日本アラブ首長国連邦協会会長。

1.大協石油に入社
昭和18年(1943)11月26日、私は福島高商時代の友人・大谷春雄君からの強い勧誘で大協石油に入社した。この石油会社は昭和14年(1939)9月4日、新潟県下にあった中小8つの製油会社が、国策により合同合併して生まれた。大谷君は8社の一つの大谷製油所を経営していた大谷家に婿養子として入り、新会社で働いていたのである。私が入社したころ、大協石油四日市製油所には約200人の社員がいた。全社でも300人ぐらいだったと思う。

2.本社転勤と入院担当医の温情
昭和34年〈1959〉、東京本社に転勤し、私は営業本部長に就任した。大協入社以来、工場勤務で総務畑一本だっただけに最初に聞いた時はびっくり仰天したものだ。当時、わが国では石炭から石油へのエネルギー革命が進行中で、石油製品の需要は年に20%以上の高率で伸び続けていた。当然、作れば作るほど利益が出た。工場勤務時代、私はこういう状況に、「石油会社はメーカー。作ることが一番大事」と考えていた。それが営業部に移り、製品はいくら作っても売れなければ一銭にもならないことを痛感、「大協の本業は営業」と考えを変えた。それ以後、「販売の最前線で頑張る特約店を大事に」、を肝に銘じている。
 営業活動中に肺結核となり入院、手術と長期の療養が必要となったが、昭和36年12月、1年半ぶりにやっと自宅に帰ることができた。退院の日には家内が子供たちを連れて迎えに来た。お世話になった担当医の広木文雄先生も一緒に退院祝いをやることになり銀座へ出かけ、みんなで食事をした。久しぶりのアルコールが私の体を駆け巡った。後は家族に一足先にご帰館を願い、先生と二人で痛飲となった。少々アルコールの回った広木先生は「中山さん、実はあなたの病室は空けたままにしてある。イザとなったら病院へ帰ろう。心配はいらない」という。私も意を強くして久し振りに飲みまくった。以来30余年、今も安心して元気に飲み続けている。

3.大協石油+アジア石油+丸善石油=コスモ石油
第一次オイルショック後、石油業界は需要の低迷、原油価格の高騰などから大不況に陥った。丁度その時期の昭和50年(1975)8月26日、私は社長に就任した。当時、わが社が抱えていた最大の問題は、石油業界の競争が激しさを増す中、今のままで生き残れるか、ということだった。そのころ、大協の販売シエアは約5%で業界8位、精製シエアに至っては3.6%で、不足分を他社への委託精製でまかなう状態だった。
 このようなときに、アジア石油の長谷川隆太郎社長から話があり、①石油精製の受委託、②石油タンク・タンカーの共同利用などを骨子とする業務提携契約を、54年春に締結した。
 57年(1982)の春、日本興業銀行から「丸善との合併を検討して欲しい」という要請があった。これを聞いて私は「アジアとの提携では精製部門は強化されたが、販売シエアは5%のままだ。ここで丸善と合併すれば、シエア拡大の悲願は達成される。前途多難と思うが、何とか実現したい」と熱い思いが込み上げてきた。
 興銀の池浦喜三郎頭取、中村金夫副頭取にもご尽力をいただき、交渉開始から約1年半後の59年4月、新しい石油精製会社であるコスモ石油が誕生、私は社長に就任した。新会社の至上命題は徹底的なコストダウンだった。このため、まず経営陣を含め精製部門の人員を同規模の同業他社より少なくした。
 また油槽所も大幅に削減した。同じ地区にある油槽所を一つにすれば効率が良くなる。少々強引でも削減を進めた。社員の協力もあって合理化は順調に進み、61年4月1日、全面合併にこぎつけた。

中山 善郎(なかやま よしろう、1914年(大正3年)2月12日 - 1996年(平成8年)1月25日)は、日本の実業家東京市荒川区生まれ、長野県古間村育ち。

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