掲載時肩書 | 宇部興産社長 |
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掲載期間 | 1967/09/26〜1967/10/16 |
出身地 | 山口県宇部 |
生年月日 | 1895/04/05 |
掲載回数 | 21 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 東京工業大学 |
学歴その他 | |
入社 | 三菱造船 |
配偶者 | 見合い |
主な仕事 | 宇部セメント、欧米視察、朝鮮セメント、宇部興 産、産業機械統制、宇部カントリー |
恩師・恩人 | 渡辺祐策(父友)・俵田明社長 |
人脈 | 岸信介(山口中同期)、大田薫(組合長)、大谷米太郎、三輪寿壮、大屋晋三、 |
備考 | 家・炭鉱経営 |
1895年〈明治28年〉4月5日 – 1984年〈昭和59年〉1月31日)は、日本の経営者。元宇部興産会長、元経済団体連合会常任理事、元日本経営者団体連盟常任理事、元経済企画庁経済審議会専門委員、元産業機械統制会理事技術部長。中安は「宇部市の経済発展のためには空港・テレビ局・ゴルフ場が必要」と唱え、1960年(昭和35年)に宇部72カントリークラブを開場させ、1966年(昭和41年)には宇部空港(現山口宇部空港)が開港した。テレビ局は1970年(昭和45年)に宇部興産出資のもとでテレビ山口が開局したものの、山口県の強い要望を受け、本社は山口市に置かれることになった。
1.岸信介君の温情
明治42年(1909)4月、山口市にある山口中学(現在山口高校)に入学した。私の同級に、岸信介元首相や元新三菱重工社長の故吉田義人らがいたが、成績は1番が岸君、2番は海軍大学に行って中将まで進んだ澄川道夫君であり、私は7,8番程度であった。私が東京工高へ行った頃、家が貧乏になった。
ある時、私は彼の家に金を借りに行った。彼は既に養子に行き結婚していた。ずいぶん若い夫婦だったが、金回りは私よりずっといい。ところが彼は懐中皆無。困っている私を見て、彼は「ちょっと待て」と言いながら、タンスの引き出しをガタガタやり始めた。
そのうち、中から奥さんのきれいな着物を持ち出し、「これを持って質屋へ行け」という。私は彼の友情についホロリとした。「すまんな」と詫びながら、その着物を風呂敷に包んでいると、そこへ奥さんのご帰館である。「しまった!」と思ったがもう遅い。彼がどう弁解するかハラハラした。
ところが、彼はいとも平気な顔をして、「お前は知らんだろうけれど、この着物は質屋というところへ持って行き金を借りるんだ。質屋は庶民金融の代表のようなもので、貧乏人にはたいへんありがたい。お前、何にも言わずに我慢してくれ。人助けだからな・・・」と言った。すると夫人は、ただ一言「ハイ」とだけ答えた。この夫人にしてこの亭主ありー。私は内心さすがになぁ、と感心しながら、顔はつい真っ赤にホテっていた。
2.公害対策は経営成功の要諦
昭和30年(1955)代に、漁業組合から宇部興産が工場廃液、汚水を流すので、近海の魚が死んだり、臭くなってかなわぬ、何とかしてくれ、とやかましく抗議を受けたことがある。調べてみると、石炭ガスを作ると石炭のゲルマニウムとか、あるいは石灰酸、アジピン酸などがいくらか流れ込んでいた。これを興産の中央研究所でそれらを除去し、なおかつ採取する方法を数年かけて成功させた。
私が考えるに、硫化水素にしても亜硫酸ガスにしても、もとは石炭、石油の硫黄分であるから、万一、除去収集に成功すれば、それを何らかの方法で、元の硫黄に帰すことも可能ではないかと思う。そうすれば、これまた、ヒット商品になった第二のポゾランセメントになるかもしれない。
こうやって、公害対策を積極的にやってみて、私は一つの教訓を得た。それは、つまりこの世の中には、本当に使いようがないという“カス”は殆どないということである。そうして、カスをいかに有用に生かすかが経営成功の秘訣にもつながる。人の問題にしてもそうだ。役に立たないカスのような人間でも、それをうまく生かすことが、人使いの要諦であろう。