囲碁将棋
| 掲載時肩書 | 将棋名誉王座 |
|---|---|
| 掲載期間 | 2016/05/01〜2016/05/31 |
| 出身地 | 鳥取県 |
| 生年月日 | 1947/09/02 |
| 掲載回数 | 30 回 |
| 執筆時年齢 | 68 歳 |
| 最終学歴 | 高等学校 |
| 学歴その他 | 日大桜丘高 |
| 入社 | 18歳プロ |
| 配偶者 | やすこ9歳(将棋厚木支部長・長女) |
| 主な仕事 | 10歳で内弟子。24歳で名人位。5冠。無冠。名人戦2度カムバック、通算15期(大山18期)、 |
| 恩師・恩人 | 石川孟司、高柳敏夫、金易二郎 |
| 人脈 | 芹沢博文、大山康晴(14勝13敗)、升田幸三、米長邦雄、梅原龍三郎、加藤一二三、山口瞳、山本直純、林葉直子、 |
| 備考 | 「自然流」 |
中原氏(1947年9月2日 – )は宮城県生まれ。将棋棋士。十六世名人、および永世十段・永世王位・名誉王座・永世棋聖という5つの永世称号を保持し、かつ、いずれも引退前から名乗る[3]。通算1308勝は羽生善治、大山康晴、谷川浩司、加藤一二三に次ぎ歴代5位。通算タイトル獲得数64期は羽生、大山に次ぎ歴代3位。日本将棋連盟会長(2003年-2004年)。
将棋界では木村義雄、大山康晴、加藤治郎、二上達也に続いて氏は5人目の登場である。24歳で大山康晴から名人位を奪取し、その後も防衛を続け9連覇。「棋界の(若き)太陽」また、棋風を攻めるべき時に攻め、受けるべき時に受ける、まるで大河の流れるような自然な指し回しの「自然流」と呼ばれた。以後、大山康晴十五世名人の後継者として将棋界に一時代を築き、さらには米長邦雄・加藤一二三・谷川浩司らと数々の名勝負を繰り広げた。
1.高柳敏夫先生から入門許可
1957年8月20日、小学4年生のとき、父と一緒に上京し高柳先生と飛車落ちで指す。日記には「飛車をきってずんずんやっていたら勝ちました」とあり、気持ちよく勝たせていただいたようだ。高柳家には、私より2歳上の長女・厚子さんと、同じ年の次女・和子さんがいた。内弟子は私一人。さほど広い家ではなかったから初めのうちは、私を含め子供3人が同じ部屋に寝ていた。
内弟子生活では師匠より師匠夫人にお世話になることの方が多い。その八重子夫人は、さばさばした性格で、私を自分の娘と同じように扱ってくれた。八重子夫人の父親である金易二郎名誉九段の存在も大きかった。内弟子になって一年後くらいに金先生の自宅近くに引っ越して、ほとんど家族の一員になった。そして普段は師匠の師匠である金先生にもたくさん指していただいた。
2.内弟子とは何か?
まず、①自由がない。②理不尽さがある。10代でこういう生活をしたこと、こういう時期があったことは大事である。大人になってから、もっと辛いことがあったときに耐えることができるからだ、とある。私(吉田)には「こういう時代を私も経験したのですよ。決して才能ばかりではありませんよ」と言いたかったように思える。
3.20歳で独立
5段になって20歳の誕生日1967年9月、高柳先生から独立を許された。入門して丸10年。思いで詰まった高柳家を後にして、杉並区上高井戸のアパートに引っ越した。その前後、自分でも驚くほどの快進撃をしたのが棋聖戦だった。当時、王座戦はまだ準タイトル戦で、タイトル戦は名人戦、十段戦、王将戦、王位戦と棋聖戦の5つ。トーナメントで挑戦者を決めるのは棋聖戦だけで、他棋戦のリーグ戦方式に比べ、勢いのある若手が活躍し易かった。
4.梅原龍三郎先生
プロになって7年で名人になり、将棋界の頂点に立つことができた。画家の梅原先生との出会いは、私にとってかけがえのないものになった。最初にお会いしたのは1969年の元日。棋聖・七段のときに師匠の高柳先生と一緒に伺った。梅原先生は将棋ファンで、高柳先生の他に、升田幸三、塚田正夫、加藤一二三といった棋士との交流があった。年に1,2回、東京・市谷の梅原邸に皆で集まるのが恒例行事になっていて、私も、梅原先生が亡くなるまで17年間、欠かさず参加した。
梅原先生は80歳であったが、ウイスキーをストレートで飲み、タバコをぷかぷか吸い、豪放磊落な感じで、そんなお歳には見えなかった。将棋の腕はアマ3段くらい。2枚(飛車角)落ちで指したが、指し手に何とも言えぬ重厚さを感じたのが、印象的だった。そのレベルのアマの方から、そうした雰囲気を感じた経験は他にない。こちらが負けると、譜面をスケッチブックに書かされた。あとで一人で並べたり、他の人に見せたりして、勝利の余韻に浸っていたようだ。
5.女流棋士・林葉直子さん
女流棋士・林葉直子さんの件は、大ピンチと題して「週刊誌の記者から取材の電話が入ったのは、仕事で滞在していた沖縄のホテルだった。ある女流棋士との関係をただすもので、すでに終わった話であったが、突然だったので応答に困った。(略)。世間を騒がせたことは、私の不徳の致すところだった」と簡単な記載で終わっていた。
6.戦績
氏は、十六世名人、および、永世十段・永世王位・名誉王座・永世棋聖という5つの永世称号を保持し、かつ、いずれも引退前から名乗ることができた。通算1308勝は大山康晴、加藤一二三、羽生善治に次ぎ歴代4位。通算タイトル獲得数64期は歴代3位でこの「履歴書」登場にふさわしい。
| 中原誠 十六世名人 | |
|---|---|
| 名前 | 中原誠 |
| 生年月日 | 1947年9月2日(78歳) |
| プロ入り年月日 | 1965年10月1日(18歳) |
| 引退年月日 | 2009年3月31日(61歳) |
| 棋士番号 | 92 |
| 出身地 | 宮城県塩竈市[1] |
| 所属 | 日本将棋連盟(関東) |
| 師匠 | 高柳敏夫名誉九段 |
| 弟子 | 小倉久史・佐藤秀司・高野秀行・熊坂学・甲斐智美 |
| 永世称号 | 十六世名人・永世十段・永世王位・名誉王座・永世棋聖 |
| 段位 | 九段 |
| 棋士DB | 中原誠 |
| 戦績 | |
| タイトル獲得合計 | 64期 |
| 一般棋戦優勝回数 | 28回 |
| 通算成績 | 1308勝 782敗 3持将棋 2093対局 (0.6258) |
| 竜王戦最高クラス | 1組(18期) |
| 順位戦最高クラス | A級(29期)[注釈 1] |
中原 誠(なかはら まこと、1947年9月2日 - )は、将棋棋士。2009年3月、引退。十六世名人、および永世十段・永世王位・名誉王座・永世棋聖という5つの永世称号を保持し、かつ、いずれも引退前から名乗る[注釈 2]。通算1308勝は羽生善治、大山康晴、谷川浩司、加藤一二三に次ぎ歴代5位。通算タイトル獲得数64期は羽生、大山に次ぎ歴代3位。
棋士番号は92。日本将棋連盟会長(2003年-2004年)。第1回川崎市文化賞受賞(1972年)。塩竈市民栄誉賞(1985年)。鳥取県気高郡鹿野町名誉町民(2004年)。気高郡勝谷村(その後合併して鹿野町、現鳥取市鹿野町宮方)生まれだが、生後1か月で転居した宮城県塩竈市を出身地とする。
- ^ “棋士データベース 十六世名人 中原誠”. 日本将棋連盟. 2017年6月27日閲覧。
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