中内功 なかうち いさお

商業

掲載時肩書ダイエー会長
掲載期間2000/01/01〜2000/01/31
出身地大阪府
生年月日1922/08/02
掲載回数30 回
執筆時年齢78 歳
最終学歴
神戸商科大学(現兵庫県立大学)
学歴その他神戸商
入社日本綿花
配偶者見合い
主な仕事サカエ薬品、ダイエー、chain化、多角化(ローソン、百貨店、ホテル、野球、リクルート、大学)
恩師堀田庄三
人脈倉元長治(商業界)渥美俊一,井植歳男、三鬼陽之助、大森実、山田無文老師、河島博
備考サカエ薬局 阪神大震災
論評

経営の原点は戦争体験から
中内氏は、昭和20年(1945)フィリピン北部の山岳地帯に潜み、夜襲を繰り返しマニラを攻める米兵を一人でも減らす作戦に加わった。

昭和二十年六月六日未明、軍曹として部下を指揮し、山上の敵塹壕へ切り込みを決行。敵の投げた手榴弾が目の前に転がってくる。爆発まで三秒。拾って投げ返そうにも体が金縛りにあって動かない。鼓動が高鳴り、思考は止まる。その瞬間、手榴弾が炸裂。バットで全身を殴られたようだ。
 背中の飯ごうは穴だらけ。突撃の動作で背中の軍刀を抜く姿勢をとっていた。もう十センチ体を起こしていたら、全身に破片が突き刺さっていた。傷は大腿部と腕の二ヵ所。ドクドクと血が噴出し、出血多量で眠くなる。

「これで一巻の終わりだ」。走馬灯のように子供のころからの記憶がよみがえる。裸電球がぼーっと照り、牛肉がぐつぐつ煮え、家族がすき焼きを食べている。開戦以来、芋の葉っぱしか食えない日々が続いてきた。神戸で育った私は、死ぬ前にもう一度すき焼きを腹いっぱいに食いたいと、来る日も来る日も願った。その執念がこの世に私を呼び戻した。
 痛みが全身を走る。偶然、近くにいた衛生兵が三角きんで止血してくれ、古参の上等兵が天幕で担架を作り収容してくれた。戦友のありがたさを思うと今でも古傷がうずく。

 季節は雨期、蒸し暑い。傷口にはウジ虫がわき、腐った肉を食う。食糧はないのに自分はウジ虫に全身を食い尽くされそうだ。腐った肉を自分で切り取り一命は取りとめたが、その後は一層悲惨な敗走が続く。「芋の葉っぱ」さえ食えず、アブラ虫、みみず、山ヒル・・・。食べられそうなものは何でも食う。靴の革に雨水を含ませ、かみしめたこともあった。人間の限界を問う飢餓。まさにあの「野火」の世界・・。
(「私の履歴書」 経済人三十五巻 336,337p)」

復員して見合い結婚した際、「人間は裸で生まれてきたんやから裸になるのは覚悟の上や。関東軍で小さなシャベルを使って戦車壕を掘っていた。どんなことをしてでも妻子を養う」と誓った。そして大衆に愛される「良い品をどんどん安く、より豊かな社会を」をダイエー憲法と決めたのだった。

追悼

両氏が相次いで亡くなった。後藤田氏は91歳、中内氏は83歳であった。両氏とも政界、財界を風靡した風雲児で、日経の「私の履歴書」に掲載された人でもあった。後藤田氏は1991年1月に、中内氏は2000年1月に掲載された。後藤田氏のそれは中曽根氏の1992年1月、福田赳夫氏の1993年1月よりも早い掲載でした。

後藤田氏は最後の内務官僚として入省し、警察庁長官や内閣官房副長官(事務次官全体の責任者)として官僚機構と国家情報の全てを掌握し、政界に進出したのですからその実力は他の政治家よりも卓越したものでした。氏は日経の「履歴書」の中で「官と政」の違いを語り、「官僚」は省益中心ではなく国家全体を、「政治家」は官僚を見習い勉強して、有能者を登用して守ってやらねばならないとその心構えを述べていました。

中内氏は「生産者が価格を決めるのではなく、消費者が価格を決める」として流通革命を引き起こしました。「現在価格を1/2以下にして消費者物価を引き下げる」と豪語して実行していきました。流通業からリクルート、プロ野球、ホテル業など多角化路線で一大コングロマリットを築き上げましたが、過大投資のためバブル崩壊とともに全ての事業から引退しました。「履歴書」の最後に「消費者の心理が読めなくなった。若者たちがどうして携帯電話に毎月1万円もの情報料を払うのだろう」と。

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