掲載時肩書 | ダイエー会長 |
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掲載期間 | 2000/01/01〜2000/01/31 |
出身地 | 大阪府 |
生年月日 | 1922/08/02 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 78 歳 |
最終学歴 | 神戸商科大学(現兵庫県立大学) |
学歴その他 | 神戸商大 |
入社 | 日本綿花 |
配偶者 | 見合い |
主な仕事 | サカエ薬品、ダイエー、chain化、多角化(ローソン、百貨店、ホテル、野球、リクルート、大学)、OMCカード、流通科学大学 |
恩師・恩人 | 堀田庄三、山田無文老師 |
人脈 | 倉元長治(商業界)渥美俊一,井植歳男、石橋信夫、三鬼陽之助、大森実、河島博、王貞治、司馬遼太郎 |
備考 | 流通革命(松下幸之助氏と価格戦争30年) |
1922年8月2日 – 2005年9月19日)は大阪府生まれ。日本の実業家。ダイエー創業者。戦後の日本におけるスーパーマーケット (GMS) の黎明期から立ち上げに関わり、近年の消費者主体型の流通システムの構築を確立させ、日本の流通革命の旗手として大きく貢献した。ダイエー会長・社長・グループCEOを歴任したほか、日本チェーンストア協会会長(初代、10代、14代)・名誉会長(初代)、日本経済団体連合会副会長を務めたほか、自身が設立した学校法人中内学園(流通科学大学)学園長・理事長、財団法人中内育英会の理事長も務めた。中内氏は、昭和20年(1945)フィリピン北部の山岳地帯に潜み、夜襲を繰り返しマニラを攻める米兵を一人でも減らす作戦に加わったことを記す。
1.経営の原点は戦争体験から
昭和二十年六月六日未明、軍曹として部下を指揮し、山上の敵塹壕へ切り込みを決行。敵の投げた手榴弾が目の前に転がってくる。爆発まで三秒。拾って投げ返そうにも体が金縛りにあって動かない。鼓動が高鳴り、思考は止まる。その瞬間、手榴弾が炸裂。バットで全身を殴られたようだ。背中の飯ごうは穴だらけ。突撃の動作で背中の軍刀を抜く姿勢をとっていた。もう十センチ体を起こしていたら、全身に破片が突き刺さっていた。傷は大腿部と腕の二ヵ所。ドクドクと血が噴出し、出血多量で眠くなる。
これで一巻の終わりだ」。走馬灯のように子供のころからの記憶がよみがえる。裸電球がぼーっと照り、牛肉がぐつぐつ煮え、家族がすき焼きを食べている。開戦以来、芋の葉っぱしか食えない日々が続いてきた。神戸で育った私は、死ぬ前にもう一度すき焼きを腹いっぱいに食いたいと、来る日も来る日も願った。その執念がこの世に私を呼び戻した。
痛みが全身を走る。偶然、近くにいた衛生兵が三角きんで止血してくれ、古参の上等兵が天幕で担架を作り収容してくれた。戦友のありがたさを思うと今でも古傷がうずく。
季節は雨期、蒸し暑い。傷口にはウジ虫がわき、腐った肉を食う。食糧はないのに自分はウジ虫に全身を食い尽くされそうだ。腐った肉を自分で切り取り一命は取りとめたが、その後は一層悲惨な敗走が続く。「芋の葉っぱ」さえ食えず、アブラ虫、みみず、山ヒル・・・。食べられそうなものは何でも食う。靴の革に雨水を含ませ、かみしめたこともあった。人間の限界を問う飢餓。まさにあの「野火」の世界・・。
(「私の履歴書」 経済人三十五巻 336,337p)」
2.ダイエー憲法
復員して見合い結婚した際、「人間は裸で生まれてきたんやから裸になるのは覚悟の上や。関東軍で小さなシャベルを使って戦車壕を掘っていた。どんなことをしてでも妻子を養う」と誓った。そして大衆に愛される「良い品をどんどん安く、より豊かな社会を」をダイエー憲法と決めたのだった。
3.阪神大震災
平成7年(1995)1月17日、阪神淡路大震災が発生。犠牲者6,432人、当社関係者でも119人が死亡。
私は自分の仕事がライフラインの一つに当たると自負してきたが、時々刻々と変化する被災者の要望に迅速に対応し、生活を最低限維持するための必需品を安定供給できたとは言い難い。そのことへの憤りが死者への鎮魂とあいまって、心の奥底に渦巻く。
あの日、東京の自宅で午前5時半に起床。その直後にニュース速報が流れた。関西は当社発祥の地だ。気がはやってすぐさま家を出た。オフィスに着くと、大阪や姫路からは連絡が入る。だが、神戸からは報告なし。「もしもし」「もしもし」掛けても掛けても店への 電話はつながらない。情報が入ってくるのを待ってはいられない。矢継ぎ早に決断を下しながら、ふとテレビに目をやる。高速道路の橋げたは倒壊し、住宅やビルもぺしゃんこ。何本もの大きな火柱が上がる。想像以上の被害に私は戦慄した。もし今、水や食料が断たれたら、パニックに陥った人々が店に押し寄せるかもしれない。
それでも人々の不安を取り除くことだけを考え、「店に灯を灯せ」「早く店を開けろ」と専務に指示。電気の通じている店は灯を点け、店は開けられなくても店頭や駐車場で営業した。私は3日後に現地入りした。全国展開の起点となった三宮店の無残にひしゃげた姿が私を迎えた。50年前の敗戦時の神戸の焼け跡が脳裏に浮かぶ。この危機を乗り切れるのは、戦争を体験した自分しかいない。もう一度最初から出直しだ。
現地での記者会見で、「ダイエーは商品を無料で配らないのか」という質問を受け、あぜんとした。商人が無料で商品を配ることなど、できるはずがない。生活必需品を適正価格で安定供給し続けることが、私の使命だ。私は商人として、神戸を中心とした被災地の人々に「ダイエーが店を開けたら安心だ」と言われるように、努力をつづけた。
両氏が相次いで亡くなった。後藤田氏は91歳、中内氏は83歳であった。両氏とも政界、財界を風靡した風雲児で、日経の「私の履歴書」に掲載された人でもあった。後藤田氏は1991年1月に、中内氏は2000年1月に掲載された。
中内氏は事業の岐路に立つたびに、ピーター・F・ドラッガー教授の著した「現代の経営」をボロボロになるまで読み返し「事業の目的は顧客の創造」という一言を信条とした。そして、ドラッグストアに始まり、コンビニ、雑誌、クレジットカードに至るまで、小売業の周辺の事業を展開することで「顧客を創造」した。これが「フォー・ザ・カスタマーズ(お客さんのために)」という理念を具体化するための拡大戦略だった。
「生産者が価格を決めるのではなく、消費者が価格を決める」として流通革命を引き起こしました。そして「現在価格を1/2以下にして消費者物価を引き下げる」と豪語して実行していきました。流通業からリクルート、プロ野球、ホテル業など多角化路線で一大コングロマリットを築き上げましたが、過大投資のためバブル崩壊とともに全ての事業から引退しました。引退時に「消費者の心理が読めなくなった。若者たちがどうして携帯電話に毎月1万円もの情報料を払うのだろう」と言われたのが印象に残った。
なかうち いさお 中内 㓛 | |
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生誕 | 1922年8月2日 日本 大阪府西成郡伝法町(現 大阪市此花区伝法) |
死没 | 2005年9月19日(83歳没) 日本 兵庫県神戸市中央区(神戸市立中央市民病院)[1] |
国籍 | 日本 |
出身校 | 兵庫県立神戸高等商業学校(現兵庫県立大学) |
職業 | 実業家 |
配偶者 | 妹尾萬亀子 |
子供 | 長男 中内潤 次男 中内正 長女 中内綾 |
受賞 | 勲一等瑞宝章 食品産業功労賞 |
中内 㓛(なかうち いさお、1922年〈大正11年〉8月2日 - 2005年〈平成17年〉9月19日)は、日本の実業家。ダイエー創業者。
戦後の日本におけるスーパーマーケット (GMS) の黎明期から立ち上げに関わり、近年の消費者主体型の流通システムの構築を確立させ、日本の流通革命の旗手として大きく貢献した。
ダイエー会長・社長・グループCEOを歴任したほか、日本チェーンストア協会会長(初代、10代、14代)・名誉会長(初代)、日本経済団体連合会副会長を務めたほか、自身が設立した学校法人中内学園(流通科学大学)学園長・理事長、財団法人中内育英会の理事長も務め、教育者としての一面もあった。
名前の正式な用字は「功」ではなく「㓛」(「工+刀」、㓛:U+34DB)。