掲載時肩書 | 総合エネルギー調査会長 |
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掲載期間 | 1996/03/01〜1996/03/31 |
出身地 | 長野県 |
生年月日 | 1919/10/04 |
掲載回数 | |
執筆時年齢 | 77 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 商工省 |
配偶者 | 母・歌人 |
主な仕事 | 独占禁止法、結核3度入院、パリ、繊維 通商問題、電源開発、石油探索会社 |
恩師 | |
人脈 | 中村真一郎(一高)金森久雄、竹内道雄、 来栖弘臣(パリ)、佐橋滋、田中角栄 |
備考 | ナポレオン |
氏は’17年8月11日に97歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は1996年3月77歳の時であった。氏が有名なのは、上司の佐橋滋企業局長と取り組んだ、特定産業振興臨時措置法案(特振法案)を作りその成立に奔走したことだ。これは日本の資本自由化に備え国際競争力を政府主導で確保することを目的として、1962年(昭和37年)に「新産業秩序の形成」を謳い文句に各界の反対(特に自動車メーカーの反対が強かったとされる)に遭い、審議未了で廃案となった。しかし、その精神は、官民協調方式と体制金融というかたちで、その後長い間、日本の経済政策の根幹となっている。(これが城山三郎の小説「官僚の夏」の主要モデルとなった)
氏は、ナポレオンの研究家として文筆活動も行い、81年に「1812年の雪―モスクワからの敗走」で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している。この「履歴書」の執筆も洒脱で明快であり、本人が書いているように思われる。そのひとつ、田中角栄について次のように書いている。
通産省事務次官に就任して半月足らずで、田中角栄大臣の登場となった。大臣は幹部職員を前にして、自分は若くして郵政大臣を務め、その後建設、大蔵など大臣経験を重ねてきたが、今日ほど満足なことはない。というのは、これまで事務次官は自分より年長だったのに、このたび初めて年下の次官を得たからである。これで名実ともに大臣になったと実感を味わっている。当時私は52歳、田中大臣はまさしく私より1歳年長だったと。
氏は田中大臣に仕えるうちに次第にその人柄に魅了され、政策論でも感心するようになった。それは独特な発想法で、一つの庭園を造るのに、官僚なら図面を先に引いて、それに合う材料を揃えるのに、大臣は逆に手あたり次第の素材を用い、いつの間にか遜色のない出来栄えに仕上げてしまう。つまりわれわれの演繹的なやり方に対し、大臣のそれは帰納法的であり、現実的であって、そこが私には勉強になったと。