マハティール・モハマド まはてぃーる もはまど

政治

掲載時肩書マレーシア首相
掲載期間1995/11/01〜1995/11/30
出身地マレーシア
生年月日1925/12/20
掲載回数29 回
執筆時年齢70 歳
最終学歴
シンガポール医科大学
学歴その他英国ケンブリッジ大合格・行かず
入社役所
配偶者医師級友
主な仕事反英国運動、離島医療官、開業、議員 、「マレー問題」本、英国と確執、look-east、ASEAN外交、
恩師ラザク首相
人脈ラーマン(父の教え子)・リークワンユーと論敵、福田・中曽根・村山首相、三村庸平、舘豊夫、スハルト、アキノ、
備考父・教師
論評

1925年7月10日/12月20日- )は、マレーシアの政治家、医師。同国首相(第4代:1981 – 2003、第7代:2018 – 2020)、暫定首相(2020年2月24日 – 3月1日)などを歴任した。マハティール氏は1981年~2003年の前在任期間中、日本を手本に国の開発を進める「ルック・イースト政策」を採用し、自国を「東南アジアの優等生」と呼ばれるまでに成長させた実績がある。特に1990年代のGDP(国内総生産)成長率は9%台と著しく、1996年には10%の大台にも載せている。従来の農作物や鉱産物の輸出、観光業に依存した体質から脱却し2020年に先進国入りするとの目標「ワワサン(マレー語で vision の意)2020」を掲げ、特に近年は、アジアにおけるIT先進国となるべく様々な経済政策を推進した。代表的なものとして、首都クアラルンプール周辺地域に建設された最新のITインフラが整備された総合開発地域マルチメディア・スーパーコリドーの建設が上げられる。

1.マレーシアの独立と政治への傾斜
私が開業医になった年の1957年8月31日、マレーシアは英国から独立した。かって私が反対していた中国人やインド人を同格に扱おうとするマレー連合構想は、マレー人の特別の地位が保証されることで英国との妥協が成立したのだった。マレーシアが日本と国交を樹立したのもこの年で、11月には日本の首相として岸首相がクアラルンプールを訪問している。私は開業医として精力的に診療活動を続けていた。貧しい農民からは診療費は2,3ドルしか受け取らなかった。農民の貧しい生活を身をもって知った私は、それを解決する道として身近な地方政治に次第に目を向けていった。

2.論敵リー・クアンユー氏
1964年、私は東京オリンピックの開催年にマレーシアの中央政界の政治家としての第一歩を踏み出した。中央政界で私はマレー人の権利を拡大すべきであるとの持論を強く主張した。論敵は当時のマレーシアの一部だったシンガポール出身のリー・クワンユー議員(後のシンガポール首相)である。同氏は英国のマレー連合案と同じように中国人、インド人にも対等な権利を与えるよう主張していた。3人種をまとめて「マレーシア人」と呼び、その国が「マレーシア」という考えだ。かねて「マレーシア人優先政策」を主張していた私との対立は決定的だった。リー氏とはこの政策をめぐって激しい論争が続いた。
 シンガポールはこれがもとで65年にマレーシアと袂を分かち、中国人中心の国家として独立した。リー氏は独立後、私への攻撃はやめた。私が次にリー氏に会ったのは私が81年に首相になった後だ。95年5月、東京で開かれた日本経済新聞社主催の国際会議の晩餐会で、私はリー首相と隣り合わせに苦笑した。

3.首相就任と英国との確執
私の名前のマハティールはマレー語で「偉大な存在」という意味である。私自身、首相になろうとは夢にも思っていなかった。しかし81年7月、私は首相に就任した。私は若いころから読んでいた歴史的人物の自叙伝や伝記を思い出した。第一は、イスラム教徒としてまず預言者マホメットである。砂漠の遊牧民であるアラビア人にイスラムの教えを広めアラブ社会を変えた。ロシアのピョートル大帝、日本の明治天皇らは遅れた後進国を強力な近代国家へ育成した。一人の人間でも世の中に大きな変革をもたらすことができる。
 私は、発展途上国が近代国家に成長するには国民の意識改革が欠かせないと考えていた。57年に独立したといっても、マレーシアの人々は心のどこかで英国の存在を認めている。英国もマレーシアをそんな目で見ている。自立し、世界から尊敬される国造りを胸に描く私にはこれは見過ごせない大きな問題だった。英国と対等の地位を築くため、第一弾は英国人が所有するゴム園やスズ鉱山の会社株式をマレーシアが保有すべきと、ロンドン市場から電撃買収を行った。第二は、国会議事堂を見下ろす位置にある英国の高等弁務官(大使)公邸をマレーシアに返還を求めると両国の確執は強まったが、後に応じてくれた。

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