掲載時肩書 | 米モトローラ元会長 |
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掲載期間 | 2000/06/01〜2000/06/30 |
出身地 | アメリカ合衆国 |
生年月日 | 1922/10/09 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 77 歳 |
最終学歴 | 米国ノートルダム大学 |
学歴その他 | |
入社 | 通信学校 モトローラ |
配偶者 | 母強盗死 |
主な仕事 | 父モトローラ設立、カーラジオ、軍用トランシーバ、QC活動、大学設立、アジア進出、日米半導体協定、イリジウム計画 |
恩師・恩人 | ダニエル・ノーブル(FM通信) |
人脈 | 井深大、盛田昭夫、N・ロックフェラー、E・テラー博士、西室泰三、ビル・ワイズ、小林宏冶、トーマス・ワトソンJ(IBM)、佐波正一、真藤恒、カーラ・ヒルズ |
備考 | 父移動体通信 |
1922年10月9日 – 2011年10月11日)はアメリカ合衆国生まれの経営者。父は、ガルビン・マニュファクチャリング(現モトローラ)の創業者のポール・ガルビン。1939年、父の会社に入る。1956年、モトローラ社長に就任。1959年から1986年まで、モトローラ最高経営責任者を務めた。また、日米財界人会議の米国側議長など多数の公職も歴任した。モトローラ会長兼最高経営責任者(CEO) を務めた。
1.軍用無線の開発
1936年、家族で欧州旅行をした。父は多くの人と会い、世界大戦は避けられないと確信し、民生から軍用へと経営のカジを切った。欧州から帰国後、父は社の幹部を集め、米軍の通信設備について尋ねたが、誰も正確なことは知らない。そこで技術部門の責任者が近くの基地に出向き、対応に出た将校から基本的な情報を得たのだという。
当時米軍は前線の塹壕から後方の陣営まで通信ケーブルを敷設していた。実際、第一次世界大戦は各国ともその程度の装備で戦ったのである。モトローラは警察用無線の開発では数々の実績を上げていたが、軍の装備に対する要求はケタ外れに厳しかった。技術陣が苦心の末、試作機を完成させた。後に「ハンディトーキー」と呼ばれる製品である。軍に持ち込むと大いに喜ばれた。本格的な量産体制が整うのは1941年6月。真珠湾攻撃の半年前で、終戦までに4万台を出荷した。
2.閉鎖的通商政策に閉口
日本メーカーは熱心に欧米の技術を吸収、急速に力をつけていった。これに比例して、日本から購入する品目は、部品からテレビ受像機など完成品にまで拡大、取引高も急速に膨らんだ。しかし、60年代後半には、対日貿易の不均衡が気になりだした。我々が日本製品を購入することがあっても、逆はない。我々の製品はほとんど売れなかった。当初は、まだ日本経済が復興途上だからと思い納得していたが、何年たっても状況は変わらなかった。
世界で初めてIC(集積回路)を完成したテキサス・インスルメンツ(TI)は、64年に通産省にIC生産のため新会社設立を申請したが、合弁会社設立に5年も要した。60年代はモトローラが欧州で工場建設を申請すると、政府に大歓迎され、即座に現地で優秀な人材を採用することもできた。
だが、日本は違う。海外企業の目には、日本は国土を聖域として敵からの攻撃から守り、自らは外に向かって輸出攻勢をかけているように映った。本来、ビジネスに軍事用語を使うのは嫌いだが、当時のいらだちを表現するには他に適当な言葉が見つからなかった。
3.日米摩擦に産業間協議を提唱
日米摩擦を政府間交渉だけで解決するのは無理ではないか。私はいつのころからかそんな思いを抱き始めた。カーター政権時代から、産業界代表として通商問題へ深くかかわるようになり、多国間の通商交渉がどれだけ時間がかかるかも知った。しかも、ハイテク分野の摩擦を繊維、鉄鋼などと同じ手法で解決するのは限界がある。そこで、政府間の協議と並行して、日米の企業人同士が胸襟を開けば道は開けると考えた。この考えに賛同してくれたのがソニーの盛田昭夫氏だった。
1984年、我々はハワイのホノルルで会合を開いた。私とアキオが共同議長で、日米の大手電機・機械業界の首脳がそれぞれ4社ずつ参加。米国企業は品質・サービス強化策を語り、日本の企業は国籍を問わず購買すると約束した。独禁法に詳しい弁護士も出席。それなりに実りある会合だった。
その後、半導体摩擦の解決に向け、実質的な協議の場を設けることとなった。参加メンバーは日米半導体メーカー。あくまで民間同士の話し合いだが、手分けして両国政府の了解を取り付けよう。盛田氏が通産省を、私がUSTRを担当した。ヤイターUSTR代表は私に「民間の交渉に干渉はしないが、結果は教えて欲しい」と言った。