掲載時肩書 | デザイナー・実業家 |
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掲載期間 | 1996/04/01〜1996/04/30 |
出身地 | イタリアヴェネツィア |
生年月日 | 1922/07/02 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 73 歳 |
最終学歴 | 仏専門学校 |
学歴その他 | |
入社 | レゴリ洋裁店 |
配偶者 | ジャンヌ・モロー4年間 |
主な仕事 | 仏国移住、ディオールから独立(28歳:デザイン・裁断・縫製)、紳士服、既製服に進出、多角化(食器・家具、香水、劇場)、マキシム、 |
恩師・恩人 | ディオール |
人脈 | ジャン・コクトー、ジバンシー(5歳下)、高田美(ヨシ)、松本弘子、森英恵、ケンゾー、世界各国首脳陣、ユネスコ名誉大使 |
備考 | 父63歳、 母46歳で生まれた7人兄弟末っ子、工場は世界に800か所 |
ピエール・カルダン(デザイナー・実業家)1996年4月登場
1922年7月2日 – 2020年12月29日)は、イタリア・ヴェネト州サン・ビアージョ・ディ・カッラルタ生まれ。フランスのファッションデザイナー。イタリア名ピエトロ・コスタンテ・カルディン 。前衛的なスタイルでオートクチュールのブランドを立ち上げ、1960年代〜1970年代に一世を風靡した。カルダンはアバンギャルドなスタイルで、宇宙時代的(コスモ・コール)なデザインで有名となる。幾何学模様や形を好み、女性的な形状を無視することも多かった。ユニセックスなスタイルにもすすみ、実験的であり、実用的ではないものも多かった。1954年には、「バブル・ドレス」を発表した。また、日本に注目した初めてのオートクチュールのファッション・デザイナーであり、1958年には日本をオートクチュールの有望市場として訪れている。その後、日本人ファッションモデルの松本弘子 を起用したことも有名である。日本人を起用したヨーロッパのブランドは、カルダン氏が初めてだった。また当時珍しかった、男性や黒人女性モデルも起用している。
1.初のショー
私は、デザインも裁断も縫製もこなせるようになっていた。つまり、最初から最後まで一人で服を作ることが出来るということだ。この点が、デザイナーであって裁断などは従業員に任せていたクリスチャン・ディオールと違う点だった。アトリエは4人の従業員でスタートした。ディオールのメゾン(洋裁店)で働いていた時からこの時期にかけて、いろいろな分野の人と一緒に仕事をすることができた。私のメゾンでは当初、舞台や映画の衣装を作っていたが、ジョセフ・ロージー、ルキノ・ビスコンティらの監督と出会った。バレエ衣装も扱ったし、俳優のジェラール・フィリップ、ビビアン・リー、リタ・ヘイワースらの服も作った。彼らと知り合えたことは計り知れない財産になった。
初めてのオートクチュールのショーは1953年。この時に発表したのが、プリーツ(ひだ)の入ったコートだ。プリーツスカートは当たり前だが、コートにプリーツを入れるという発想は誰にもなかった。使ったのがモンタニャックと呼ばれる厚手の毛の生地だった。この生地で作った赤いコートが、幸い大人気になった。特に米国で20万枚も売れたのがうれしかった。このコートの成功が私自身の名も売ることになったのだ。
2.初訪日
1950年代、私にとってもフランスにとっても日本は遠い国だった。私には写真家の高田美(ヨシ)以外に日本人の知人はなく、後はパリに大使館があるくらいだった。これまで40回以上も日本を訪れ、ライセンス契約を直接に交わした会社が現在49社あることを思うと、隔世の感がある。
初めての訪日は58年4月のことである。ヨシを通じて、日本文化デザイン協会から「日本で立体裁断の講習とショーをやってもらえないか」という話がきた。喜んで引受けた。その時、私が考えたのは日本人のマヌカン(ファッションモデル)を使えないかということだ。エレーヌというフランス人も連れていくが、ショーや講習に日本人を使ってやりたかった。それで、日本でマヌカンの写真を集めて送ってもらった。200人ぐらいの写真集が届いたろうか。中にとても魅力的な女性を見つけたのが、松本弘子で早速手伝いを頼んだ。
日本では当時、布地を直接人体にあてて裁断する立体裁断の技法は知られていなかったから、講習は大きな関心を集めた。1か月の滞在中、文化服装学院や田中千代学園、杉野学園ドレスメーカー女学院などで毎日のように講習会をやり、その後ショーを開いた。デッサンから実際の服を作るモデラ―ジュの手法も説明した。若かった森英恵さんも講習に来ていた。
日本人のデザイナーも個性的になった。例えば三宅一生氏は素晴らしい個性と才能の持ち主だと思う。才能豊かな森英恵さんは、私の意見では、今はフランス的に変わってきたような気がする。高田賢三氏は編集者的能力に優れた人で、流行を再編して新たなスタイルを作り出して成功を収めた。才能はイッセーだが、より成功したのはケンゾーだといえるだろう。
3.マヌカン・ヒロコ
1960年代に私のオートクチュール(高級注文服)を支えてくれたのが、マヌカンの松本弘子だ。58年に初めて訪日した時から何度も頼み続けて、やっと彼女がパリに来たのは60年、24歳の時だった。当時のマヌカンはメゾンの専属だから、着るものは普段から所属メゾンの服だけだった。ヒロコはパリに来た当初、クリスチャン・ディオールの店で買い物をしてしまうほど何も知らなかった。しかし、彼女はすぐにトップ・マヌカンになった。オートクチュールのショーでは、最後に一人のマヌカンにウェディングドレスを着てもらうが、彼女には引退するまで7年間、14回を務めてもらった。
ヒロコは信じられないくらい慎み深く控えめだった。それに、他のどのマヌカンとも違う歩き方をした。歩いているとは思えなかった。飛んでいるかのようだった。加えて美しさのミニチュアでもあった。小さな足、長い首、とてもやせていてきゃしゃな体、色白の肌。日本人でありながら日本的なものを超えていた。子供ができて引退する67年、彼女に「ヒロコ、これまでの私の成功を50%ずつ分け合おう」と言ったが、これが私の本心だった。
4.ジャンヌ・モローと一時生活
私は40代前半の頃、女優のジャンヌ・モローと恋愛関係にあり、4年間一緒に暮らした。その間、彼女は私のデザインした服をたくさん着たし、私も彼女の映画のために多くの仕事をした。彼女はごく標準的な体形だったので、普通サイズの服がぴったりとよく似あった。
6年下のジャンヌは、とにかく美しく個性的だった。しかし何よりも、すさまじい才能の持ち主だった。彼女は偉大な女優だ。フランス最高の女優といってもいい。永く歴史にも残るだろう。他の女優を思い浮かべても、彼女に匹敵する人はいない。彼女はデビューしたてのころでさえ、コメディー・フランセーズの座員だった。当時、試験も受けずに座員になった例はほとんどなかった。
マスコミは随分我々を追いかけ回したが、結局結婚はしなかった。私はプライベートな生活を語るのは好きではない。しかし、私はずっと独身であり、家庭生活ではなく仕事に生きることを選んだということは言っておかねばならない。私は人生の導き手として仕事を選んだ。人は、幸せな家庭生活を送り、定時に帰宅して子供と食事をし、しかもバリバリ仕事をするというわけにはいかない。これは勝手な理屈でなく現実なのだ。
氏は‘20年12月29日98歳で亡くなった。この履歴書に登場は1996年4月の73歳のときでした。親日家としても知られ、60年代の初めには東洋人初のパリコレモデルとして松本弘子さんを抜擢した。58年に初来日した際、1か月も滞在して立体裁断の講習を実演。森英恵さんや高田賢三さん、コシノ・ジュンコさんらに伝授するなど日本の服飾文化の礎を築くのに貢献した。印象深かった記述はつぎのとおり。
1.フランスに移住
私がフランスに移住したのは2歳のとき、ムッソリーニのファシズムから逃れるためだった。私たち兄弟が2歳から9歳にかけて、グルノーブルや近くの小さな村を転々としたのも、職を求めてのことだった。
私は学齢になると地元の公立小学校に通い始めたが、楽しいことばかりではなかった。私はフランス人から見れば、典型的な貧しいイタリア移民の子だった。イタリア人は「マカロニ」と呼ばれて差別されていた。私も8,9歳のころ「ちびマカロニ」と言われた。今の私は全く差別されていないから、こういう思い出を笑いながら話すことができる。しかし、幼い子供にとって、こんな忌々しいことはない。
2.クリスチャン・ディオールとの出会い
私はシャンゼリーゼにある有名なルネ・シモン演劇学校にも通った。俳優への希望もまだ持っていたからだ。しかし、4回ほど公演をやって俳優になれないと悟った。そんな25歳のときに知人が紹介してくれたのが、当時41歳のクリスチャン・ディオールだった。
ディオールは女性的で優柔不断、何をしたいのかよく分からない時があったし、決めたことを変えることもよくあった。私はスポーツマンタイプでけんかっ早く挑戦的。全く正反対の人間だったから、仕事では難しい面もあった。しかし、美意識やエレガンスに関しては天才だった。私はエレガンスとは何か、どうすればエレガントになるかについて、実に多くのことを学んだ。
3.28歳の独立(屋根裏、元手は2万フラン)
ディオールとは些細なイザコザがあり、結局3年間働いたディオールのメゾン(洋裁店)を辞めた。この段階で、私の人生には俳優などいろいろな可能性があったかもしれない。しかし、私には「一番にならねばならない」という強迫観念があった。とにかく一番になりたかったのだ。モードには自信があった。
私は、マドレーヌ寺院に近い屋根裏部屋で、メゾンを開く準備を始めた。借金も一切しなかったので、手持ちの2万フランだけだった。屋根裏だったが200㎡あった。28歳、ついに独立である。メゾンを開いた日、ディオールからバラが届いた。何と144本。入口のドアを通れないほどの巨大な花束は、彼のお詫びの印だった。
4.私の創造方法
発想が湧くと目を閉じる。抽象的なイメージを組み合わせて形を見つけるためだ。私はすべての仲間と全く異なるやり方を持っている。それは、服は壺(つぼ)であり肉体は壺に入れる水だという考え方だ。水には形がないように、私も胸、ウエスト、腰といった形を完全に無視する。その段階で肉体は不在だ。
デザインを服に具体化する時、最も重要なのは比率と線である。消費者にとって重要なのは、第一に色だろう。まず青や黄色の模様が目に入り、その次に形を見る。素材は3番目だ。私の創造活動において最初に来るのは形である。次にボリューム感や軽やかさ、柔らかさを表現するための素材であり、色は最後の要素にすぎない。