掲載時肩書 | インドネシア大統領 |
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掲載期間 | 1998/01/01〜1998/01/31 |
出身地 | インドネシア |
生年月日 | 1921/06/08 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 77 歳 |
最終学歴 | 陸軍士官学校 |
学歴その他 | 陸軍幹部学校38歳 |
入社 | 17歳銀行見習員 |
配偶者 | 貴族娘 |
主な仕事 | 軍人、オランダ撤退、軍ビジネス、スカルノ解任、アセアン設立、ゴルカル党、30年政権 |
恩師・恩人 | 叔母 |
人脈 | スカルノ、ハビビ、マルコス、リ・クワン ユー、アキノ、(佐藤、福田、宮沢)首相 |
備考 | イスラム教徒 |
1921年6月8日 – 2008年1月27日)はインドネシアの軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。インドネシアは日本が降伏した2日後の1945年8月17日にスカルノにより独立を宣言し、ペタは8月19日付けで解散したが、降伏した日本に代わって植民地支配の復活を狙ったオランダとの間で独立戦争がやがて始まる。この時期、オランダに抵抗する正規・非正規の軍事組織が多数発足したが、スハルトは同年9月に組織された正規軍に参加し、陸軍で実績を重ね、インドネシア独立後もオランダの支配が続いていた西イリアン(ニューギニア島)解放(侵攻)作戦で活躍し、1963年に陸軍戦略予備軍の司令官に就任した。第2代大統領(1968年 – 1998年)。30年以上在任し、開発独裁政権として同国の工業化を推し進めたが、アジア通貨危機後の政治不安、社会不安を沈静化できず、大統領職を辞任した。
1.日本軍政と独立宣言(私の出発点)
私は20歳で下士官学校に入学し、卒業後は軍曹に昇格、西部ジャワの中心都市バンドンにある陸軍司令部に配属された。しかし、ここでの生活はわずか1週間で幕を閉じる。日本軍がシンガポールを攻略、1942年3月にジャワ島に上陸しため、オランダ植民地軍はあっけなく降伏したのだ。衝撃だった。
1945年8月18日だった。私がブリタル郊外での軍事訓練を終えて戻ると、日本人上官が「部隊は今日で解散」と言い、我々が持っていた武器や車両は日本軍に没収された。前日の17日にスカルノ大統領は、ハッタ副大統領とインドネシアの独立を宣言していたからだった。私は、日本の無条件降伏を知ったのはこの時である。これまで厳しい訓練に耐えてきた軍人の私にとり「いよいよ出番が来た」のである。独立を約束していた日本軍は負けた。日本にインドネシアを奪われたオランダは、再植民地化のため間違いなく戻って来るだろう。今度は自力で彼らを撃退しなければならないのだと思った。
早速、私は仲間や若者たちに呼びかけジョグジャカルタ地域の軍事組織作りに動き、副隊長に選ばれた。インドネシア共和国軍人としての、これが私の出発点である。46年1月、共和国はオランダの軍事圧力を受け、首都をジャカルタからジャグジャカルタに移した。私は首都の防衛責任者としてスカルノ大統領、スディルマン将軍から直接、指示を受ける立場になったのである。
2.反乱軍(9・30運動)鎮圧の陣頭指揮
1964年秋、日本がアジアで最初の東京オリンピック開催でわいていたころ、我が国では共産党と陸軍を中心とした反共勢力の対立で、政治的緊張は日増しに高まっていた。そして65年8月、双方のバランスを辛うじて保っていたスカルノ大統領が急病で倒れ、事態は急激に動き出したのである。
9月30日の夜、陸軍のウントン陸軍中佐が率いる「9・30運動」が革命評議会を設立、権力を握ったと伝えた。中部ジャワ師団で共産主義に傾倒していた人物である。私は直ちに直属部隊を動員、反乱軍の鎮圧に乗り出し、夕刻には国営放送、国営電話会社を奪回し、9・30運動の拠点だった郊外ハリム空軍基地も制圧した。
3.スカルノ大統領の退陣要求と私の大統領就任
1966年2月下旬、スカルノ大統領は共産党員を排除しないで新たな共産党員を含む閣僚名簿を発表した。学生たちは一層反発を強め、大統領の退陣要求を叫び始めた。大統領を支持する共産党系学生との衝突も起きた。私は大統領に「大統領を続けていただきたい。共産党解散が条件ですが・・」と訴え続けた。
私はスカルノ大統領の書簡で「政府と革命を維持し、社会の安定を守るために必要な処置をとるよう」との命令を受けた。そこで政府の最高権限を受けた私は、「共産党を解散する」とその場で決定したのである。そしてウントン中佐が起こしたクーデター組織「9・30運動」は鎮圧された。私がインドネシアの大統領に正式に就任したのは68年3月である。スカルノ大統領は名目上の地位に退いた。国民評議会の決定を実行できなかったのが理由で実質的に解任だった。終身大統領の称号もはく奪した。
スハルト Soeharto | |
任期 | 1967年3月12日 – 1998年5月21日 |
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副大統領 | ハメンクブウォノ9世 アダム・マリク ウマール・ウィラハディクスマ スダルモノ トリ・ストリスノ ユスフ・ハビビ |
出生 | 1921年6月8日 オランダ領東インド中部ジャワ州ジョグジャカルタ近郊ゴデアン村 |
死去 | 2008年1月27日(86歳没) インドネシアジャカルタ |
政党 | ゴルカル[注 1] |
配偶者 | シティ・ハルティナ(通称:ティエン) |
署名 |
スハルト(Soeharto, ジャワ語: Haji Muhammad Soeharto[注 2] 1921年6月8日 - 2008年1月27日)は、インドネシアの軍人、政治家。
第2代大統領(1968年 - 1998年)。30年以上在任し、開発独裁政権として同国の工業化を推し進めたがアジア通貨危機後の政治不安、社会不安を沈静化できず、大統領職を辞任した。在任中から、身内への不正な利益供与などについての批判を集めており[1]、辞職後、その法的責任を問われたが、高齢、健康問題を理由に刑事訴追は取り下げられた[1]。次女は国防大臣プラボウォ・スビアントの妻シティ・ヘディアティ。
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