掲載時肩書 | ジャズドラマー |
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掲載期間 | 1993/08/01〜1993/08/31 |
出身地 | 京都府 |
生年月日 | 1927/06/15 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 66 歳 |
最終学歴 | 専門学校 |
学歴その他 | 満州飛行学校 |
入社 | レストランクラブ |
配偶者 | 貿易商娘 |
主な仕事 | 飛行機教官、墜落事故、父とバンド結成、三木トリローB,NHK,big4、越国慰問、射撃、カーネギ―ホール、 |
恩師・恩人 | 三木鶏郎仲人 |
人脈 | big4(松本英彦、小野満、中村八大)、渡辺貞夫、山下洋輔、アイジョージ、越路吹雪、日野皓正、射撃仲間(森繁、三船、三橋、梅宮、松方) |
備考 | 両親とも音楽家 |
1927年6月15日 – 2003年11月1日)は京都生まれ。ドラム奏者。大連の父のバンドに参加したのち、1947年に引き揚げ。同年三木鶏郎バンドに参加。米軍クラブなどで演奏活動を始め、1949年、東松二郎とアズマニアンやレイモンド・コンデとゲイ・セプテットに参加し、若手ドラマーとして注目されるようになる。1953年に松本英彦、中村八大、小野満とともにジャズコンボ「ビッグ・フォア」を結成。ジャズブームの火付け役となり、大衆的人気を獲得した。のちに越路吹雪のバンド「ロイヤルポップスオーケストラ」や、自身のリーダーバンド「ジョージ川口&スーパーバンド」のドラマーとしても活動した。
1.おれもドラマーになる
大連の小学校高学年のとき、外国映画を上映している映画館があった。たまたま、封切られた音楽映画は既にトーキーになっていた。スクリーンの中には正装したバンドマンたちが勢ぞろいして、勢いのある演奏をしていた。途中、派手なドラム・ソロを繰り広げている場面が映し出されていた。曲には聞き覚えがあった。
「シング・シング・シング」だ。ジャズ好きでなくとも、ある程度の年配の人ならご存じだろう。スイング王、ベニーグットマン楽団の代表曲である。当時、この劇団は人気絶頂で、ニューヨークのカーネギーホールでもこの曲を演奏し、拍手喝さいを浴びていた。
父がどこから手に入れたのだろう、私の家にはベニーグットマン楽団による「シング・シング・シング」のレコードがあった。そのドラム・ソロを熱演しているのがジーン・クルーパだということも、父から聞かされていた。「ジーン・クルーパは当代随一のドラマーだ。何でも、8歳ごろから専門家からドラムの演奏を学んだ」とも。
すると、演奏を目の前でしている男がジーン・クルーパなのか・・。私は稲妻にでも打たれたように、全身に電流が走るのを感じた。ゾクゾクっと、体中がしびれてくる。眼はスクリーンにクギ付けになる。何てカッコいいんだろう。「おれがなりたいのはこれだ」という気持ちが唐突に湧き上がってきた。
2.ジーン・クルーパが来日
1952年4月、朝鮮戦争が始まり米国のジャズメンが日本に来るようになり、ジーン・クルーパ・トリオも来た。そのクルーパ・トリオが、私たちが出演していた日本橋のクラブ、マキシムに来るという。私は興奮した。
メンバー全員が興奮して熱の入った演奏をしているところへ、まずサックスのチャーリー・ベンチュラとピアノのテディ・ナポレオンが入ってきた。続いてジーン・クルーパが貫録たっぷりに入ってきた。私の顔とドラムセットを食い入るように見詰めている。私のベースドラムには、ジョージ川口のイニシアル「GK」の文字が入っていた。ジーン・クルーパも同じくGKである。
彼は自分のドラムを、どういうわけか他人が叩いていると思ったようだ。演奏が終わると近づいてくるなり「なぜGKなんだ」と尋ねた。私は「ジョージ川口だ」と答えると、「やっぱりそうか。おれとお前はブラザーだ」と言って、肩を抱きしめてきた。スイングする我々の演奏を聴いて、納得したらしい。
3.ビッグ・フォーの結成
1952年、日本人の若手だけでジャズのスーパー・バンドをつくろうと後にラジオ局の社長となる遠山景久さんから呼びかけられた。私と小野満はメンバーを探し始めた。まず白羽の矢を立てたのが松本英彦である。難航したのはピアノだった。どうもいい人が見つからない。私は米国人でも良いと思っていたが、松本英彦に相談すると「中村八大しかいないだろう」と言う。中村八大はシックス・ジョーズで松本英彦と一緒だった。まだ駆け出しの新人だったが、音楽面では主導権を取っている実力を持っているとの話だった。これにゲイ・セプテッドのバイブ奏者、平岡精二を加え5人編成で新しいバンドの顔ぶれだった。
いろいろ曲折があったが、結局、私が25、松本英彦が27,小野満が24,中村八大は22歳である。柄は小さいが粒ぞろいでやることはでかいという気持ちは込めて、ビッグ・フォーと名付けて活躍するのである。