掲載時肩書 | 前欧州中央銀行総裁 |
---|---|
掲載期間 | 2014/09/01〜2014/09/30 |
出身地 | フランス |
生年月日 | 1942/12/20 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 仏国国立行政学院 |
学歴その他 | 国立政 治学院 |
入社 | 財務省 |
配偶者 | 学生結婚 |
主な仕事 | ジス大統領補佐、中央銀行、EU統合、欧州中銀、EURO貨幣、07subprime,08leaman,10eurocrisis、 |
恩師・恩人 | |
人脈 | エミンガ―、シュミット、シラク、バーナン キ、メルケル、竹下登、内海孚、白川方明、 |
備考 |
1942年12月20日 – )は仏国生まれ。フランスの銀行家。2003年11月1日より、欧州中央銀行総裁を務めた。現在、三極委員会欧州地域議長。仏国でこの「履歴書」に登場したのは、ピエール・カルダン(デザイナー)、ルイ・シュバイツアー(ルノー元社長:日産ゴーン社長の抜擢者)と彼の3人である。彼は1942年(昭和17)生まれだから、ルイ・シュバイツアーと同じ年齢であるし、経歴も似ている。すなわち、エリート養成学校であるパリ政治学院と国立行政学院(ENA)の両校を卒業後、優秀な成績だったため、45年(1970)財務省の財務監督官になる。ENAの卒業者は大統領や首相、高級官僚を多く輩出しているが、在学中の成績順に就職が決まるため、在学中の学生は必死で勉強するという。
1.欧州金融危機3つを乗り切る
彼は、フランスのジスカールデスタン大統領補佐官から仏財務省の官房長、国庫局長、仏国中央銀行総裁、そして欧州中央銀行の総裁に就任する。その後、07年のサブプライム、08年のリーマン、そして10年から12年まで続いたユーロ圏の債務危機と3つの欧州金融危機を金融のトップとして乗り切った。しかし、この3つの危機の舞台裏は薄氷を踏むものだったと詳細に述べてくれている。特に第二幕のリーマン・ブラザースの破綻は米国から欧州経済への悪影響が大きく、連携プレーの交渉は各国の国家利益とのぶつかりで難航を極めたと書かれていた。それでも事件発生3日後には、1929年に発生した世界金融の大恐慌を防ぐために、欧州6主要銀行が協調して通貨スワップでドルの流動性資金を無制限に供給すると発表することができ、危機を乗り切った。
2.ユーロ通貨は欧州中央銀行総裁の署名
ユーロの設計と創設に1986年から11年までの25年、最前列で絶えず関わってきた。ユーロ紙幣には真正の証となる総裁の署名がある。この「私の履歴書」記事の表題にある私の頭文字「JCT」は在任中に140億枚が流通した。おそらく世界最多の署名だろう。
3.世界への開眼
世界を飛び回る仕事はずっと後のことだが、若いときから外国に出る機会は多かった。14歳で英ニューカッスルの家庭に1か月のホームスティをした。私の両親も相手の息子を迎えた「交換留学」だった。20歳までにオーストリア、イタリア、スペイン、ベルギー、オランダと英国の欧州7か国に行った。
フランス東部のナンシー国立高等鉱山高校は高等教育機関(グランゼコール)の一つで、私がここの学生会長となると、欧州の大学から多くの招待を受けた。ナンシーはロレーヌの古い首都だった。1870年の普仏戦争後にフランス語とドイツ語の言語圏に分れ、第一次世界大戦の後に再統合した。石炭と鉄鉱石の産地であり、鉄鋼生産の基地だ。
欧州統合は銃や戦車などの兵器づくりに必要な石炭や鉄鋼の共同管理が原点だ。リスクと利益を分かち合うシューマン仏外相の提案が平和と安定に道を開く。パリ条約で1951年に欧州石炭鉄鋼共同体が発足した。ローマ条約に署名した欧州6か国が57年3月に共通市場をつくった時は14歳だった。学生交流で欧州統合を日増しに意識した。