ジャック・ニクラウス じゃっく ニクラウス

スポーツ

掲載時肩書プロゴルファー
掲載期間2006/02/01〜2006/02/28
出身地アメリカ合衆国
生年月日1940/01/21
掲載回数27 回
執筆時年齢66 歳
最終学歴
米国オハイオ大学
学歴その他
入社保険外交員
配偶者20歳学 生結婚
主な仕事グランドスラム1、メジャー大会18(全英3、全米4、全米プロ5、マスターズ6)歴代1位、大統領ルール(アイク、クリントン)
恩師ジャック・グラウド (コーチ)
人脈B・ジョーンズ(目標)、B・ホーガン、big3(A.パーマー、プレーヤー),S.スニード、T.watoson,青木功、中島常幸、
備考父:薬局
論評

1940年1月21日 – )は、アメリカ合衆国・オハイオ州コロンバス出身のプロゴルファー。1960年代から1990年代にかけて活躍し、ライバルのアーノルド・パーマーとともに、ゴルフをメジャースポーツにする牽引力となった人物である。圧倒的な強さと、トレードマークの金髪により「ゴールデン・ベア」 (熊) と称され、日本では「帝王」と呼ばれ、史上最高のゴルファーとも称される。メジャー選手権ではボビー・ジョーンズの記録を破り、通算獲得ランキング歴代1位(優勝18回)。ジョーンズは「ニクラスは何事にも驚かないでいられるだけの周到な準備で、機械的に淡々とバーディーをとるゴルフをするので、私とはタイプが異なる」と評した。

1.引退決意
2005年7月15日、英国セントアンドリュース、18番ホールを72で終了したとき、これですべて終わった。すべてのプレッシャーからようやく解放されるのだと思った。なぜ、このときに引退を決めたのか。今でもそう問われることがある。最大の理由として、誰でも考えるのは65歳という年齢だろう。しかし私のドライバーの飛距離は道具の進化もあって、今でも280ヤードを超える。7番アイアンの飛距離も150ヤード。いずれも全盛時と変わらない。ただ、パットだけは違った。今でも4フィート(1.2m)のパットは問題ない。ところが15フィートのパットが全く入らなくなった。かって私はこれを望みどおりに決めていた。
 いずれにせよ、一つ言えることがある。真に強いチャンピオンは皆、例外なく「絶対に入れなければならないパット」を必ず決める。かってのアーノルド・パーマーや今のタイガーウッズがそうだ。もちろん私もそうだ。長いパットを決められない。これは競技ゴルフにおいて致命的だ。だから私自身はもう潮時だと感じていた。競技生活をこよなく愛し、人一倍、勝つことにこだわった。勝てる可能性のないゴルフはしたくない。「72」や「75」といったスコアを続けている限り、勝利は望めないからだ。

2.グランドスラム達成
この原型は史上最強のアマチュア・ゴルファーだった球聖ボビー・ジョーンズが1930年に打ち立てた記録に由来する。この年、ボビーは全英アマ、全英オープン、全米オープン、全米アマのタイトルを獲得。その直後、28歳の若さで現役から引退した。その鮮やかな身の処し方も手伝ってか、当時のメディアはこの偉業を「グランドスラム」と名付け、後世に語り継がれるボビー神話の礎となった。これを1960年に全盛時のアーノルド・パーマーが「ボビーの業績をプロのメジャータイトル全てをとることでコピーしたい」と言ったという。
 私の場合、最初に現代版グランドスラムに近づいたのは1963年である。全米は獲れても全英のタイトルはなかなか届かなかった。そして運命の66年。その前年に引き続き、マスターズを連続制覇した私はミュァフィールドで行われた全英オープンで初優勝を遂げ、遂に4大大会すべてを制覇した。マスターズ、全英、全米、そして全米プロ。複数年にわたると言え、この4大メジャーをすべて制覇した選手は、それまでにジーン・サラゼン、ベン・ホーガン、ゲーリー・プレーヤーの3人だけ。4人目の栄誉に輝いた私の次の目標はもちろん、年間グランドスラムに向けられた。

3.大統領のルール
ワシントンで大統領とのゴルフにいくつかの「特別ルール」があるのを知った。まず、アイゼンハワー・ルール。これはボールがグリーンに乗ったら、それまでの打数に1打を加えるだけで、パットをしないことを指す。心臓に爆弾を抱えていながらゴルフをこよなく愛したアイクの身を案じて、主治医が言い含めたからという。
 もっと驚いたのが、クリントン・ルールだ。アマチュアが楽しむゴルフにおいて、失敗したティ・ショットを無打罰で打ち直すことを「マリガン」と言う。クリントンはこれをすべてのホールに採用していた。この二つのルールを適用して、クリントンは「生涯を通じた目標」と公言していた70台を出すことに成功した。

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