掲載時肩書 | インテル会長 |
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掲載期間 | 1995/02/01〜1995/02/28 |
出身地 | アメリカ合衆国カリフォルニア州 |
生年月日 | 1929/01/03 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 66 歳 |
最終学歴 | 米国カリフォルニア・バークレー校 |
学歴その他 | サンノゼ大 |
入社 | ジョンズ ホプキンズ大 |
配偶者 | 大学1年 上 |
主な仕事 | ショクレー半導体、8人共同経営、IC発明、ロバート・ノイスとインテル、DRAM、MPU,半導体工業委員長 |
恩師・恩人 | ウイリアム・ショクレー、アーサー・ロック |
人脈 | ウイリアム・ショクレー(トランジスタ)、アーサー・ロック、フェアチャイルド、ジーン・ホーニー、アンドリュー・グローブ、ビル・ゲイツ |
備考 | シリコンバ レー育成, 父:保安官代理 |
1929年1月3日 – )は米国生まれ。Intel Corporation(インテル)の設立者の一人である。1956年、ウィリアム・ショックレー博士に誘われてショックレー半導体研究所に入社。ここで盟友ロバート・ノイスに出会う。だが博士との折り合いの悪さから8人の仲間とともに同社を退社することになる。起業家アーサー・ロックの支援により、ムーアは仲間とともに1957年にフェアチャイルドセミコンダクターを設立した。1961年にはICの大量生産に乗り出し、60年代半ばには世界最大の半導体メーカーとなった。1965年に、彼の唱えた「ムーアの法則」は、半導体産業のガイドライン的な役割を果たすようになる。ムーアは外国人としてフルブライトに続いて2番目に「私の履歴書」に登場した人物である。
1.8人の裏切り者になる
トランジスタの発明でノーベル賞を受賞したショックレー博士は研究者としては天才だったが、管理者や企業経営者としての能力には疑問符が付いた。博士はとにかく事業の成功欲に取りつかれていた。何か思いつくとそれをやらせるために次々と我々に新たな研究テーマを与えたり、担当分野を入れ替えたりした。会社を作ってから半年間で、博士と若手研究者との間に緊張関係が芽生え、さらに相互不信に発展した。
ロバート・ノイス氏と私、そして同じような考えを持っていた6人の研究者は何度も議論を重ね、いつしか8人のグループが出来ていた。我々は、博士の恩師でスポンサーでもあるベックマン氏に会い問題を訴えた。我々は博士にスタンフォード大学に教授として戻ってもらい、会社に対しては技術顧問のような形で助言を貰えればと考えていた。博士ならスタンフォードが受け入れてくれるのは間違いない。しかし、ベックマン氏もノーベル賞受賞者をクビにするようなことはできず、結局この話は実現しなかった。1957年初夏、我々8人はショックレー半導体研究所を去ることになったが、後に「8人の裏切り者」と呼ばれることになる。
2.失敗の教訓
我々8人はシャーマン・フェアチャイルド氏に出資を求め、1957年10月に新会社を設立した。8人は揃って30代前半で若く、希望に燃えて研究に没頭した。約1年後、「二重拡散シリコン・トランジスタ」という最初の製品を発売した。するとIBMがその性能を評価して大量に発注してくれたし、政府からの受注にも成功して、極めて好調なスタートを切った。そのため、外部からジェネラルマネージャーを採用し、実質経営者とし、ノイズ氏は研究開発、私が技術・品質分野の責任者となった。ビジネスはプロに任せ、我々は専門分野に全力投球しようという狙いだった。
しかし、1年後この社長が部下を引き連れて会社を辞め、自分の会社を作ったのだ。おまけにこの新製品に関する設計書や詳細な技術資料も一緒に持ち出し、私のすぐ下の部下も引き抜かれた。このいう企業が何十と独立し、シリコンバレーが形成されて行ったのだった。我々は当然彼らが機密資料を持ち出したことを訴えたが、裁判では決着がつかなかった。それよりも、技術開発を進めて持ち出された技術を陳腐化させてしまう方が、手っ取り早い手段だった。退社事件の失敗は貴重な今後の教訓となったのだった。
3.日米半導体協定
1984年後半から半導体不況に、日本企業は価格攻勢に出た。日本企業の行動で我々がどうしても我慢できなかったのは、度を越したダンピングだった。日本企業のダンピングについては、やむを得ない事情があったことも分かる。インテルが従業員の三分の一を解雇したように、米国は不況になると生産能力を削減する。ところが終身雇用の日本ではこうはいかない。となれば当然販売攻勢をかけてくる。当時の日本が「シェア至上主義」を掲げていたこともこれに拍車をかけた。しかし、ダンピングの正当化も認められない。
86年9月に日米半導体摩擦は「半導体協定」を生みだした。①日本企業のダンピングをやめさせる、②日本市場をさらに開放する・・の2本柱だった。第3国市場でのダンピングも禁じたことは、半導体の国際性を認識した画期的内容だった。
氏は‘23年3月24日94歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は95年2月で66歳のときでした。この「履歴書」には「ムーアの法則」そのものは書いていませんでしたが、最終日に「半導体産業の将来を考えると、今世紀中は全く悲観的になる要素はない。半導体産業ほど短期間に急速な進歩を遂げた産業はない。例えば、トランジスタのコストは35年間で4百万分の1になった。現在の技術の延長線上であと二世代程度の半導体開発十分可能で、これまでの速度で半導体産業は当分成長し続けるだろう」と述べている。
ここではインテルの企業発展の原点を記載しておく。
1.爆発的な飛躍・・集積回路(IC)は偶然に発明
トランジスタの製造に当たってはいくつかの技術上、構造上の課題があった。その最大のものがチョッとしたゴミやガスのかけ過ぎなどで、たちまち性能が劣化してしまうことだった。配線一つにしても何百人という女工員を使ってピンセットで一つひとつ作業させるのだが、それでも信頼性は今一つだった。
そんな時、8人グループの一人であるジーン・ホーニ氏が私のところにやって来た。トランジスタの表面を酸化物で覆えば汚染物から内部を保護できるし、性能も全く変わらないという案をノートに書きつけて持ってきたのだ。これこそ今でいう「プレーナ・トランジスタ」の基本構造だった。ホーニ氏の発案は早速製造工程に取り入れられることになった。その結果は大成功で、それまでのトランジスタよりも格段と信頼性の高い製品の量産が可能となった。
研究開発部門の責任者だったロバート・ノイス氏はこの発明は特許申請すべきと考え、弁理士を呼んで手続きを依頼した。話を聞いたこの弁理士は「このアイデアで他に何かできるのではないか」と質問した。ホーニ氏の発明に何か引っかかるところがったノイス氏は、この提案を正面から受け止めた。そのうち「酸化膜で覆うことで汚染を防げるなら、シリコンウェハー上のトランジスタに細工をして接続ワイヤを付けることもできるのではないか」と思い付いたのだ。一つのウェハーに複数のトランジスタや抵抗器をのせる・IC誕生の瞬間だった。
2.MPUの誕生
IC(集積回路)と並んでエレクロニクス分野で20世紀最大の発明と言えるのが、マイクロプロセッサ(MPU,超小型演算処理装置)だ。MPUは70年代後半にパソコンを生み出し、オフィスや家庭の生活を一変させつつある。インテルは世界で初めてのMPUメーカーで現在も世界市場で圧倒的なシエアを握っているが、その開発のきっかけは日本企業との商談だった。
会社設立1年でDRAM(記憶保持動作が必要な随時書き込み読み出しメモリー)など3種類の半導体メモリー(記憶素子)の商品化にメドをつけたインテルは、急速に普及していた電卓向けの半導体に強い関心を寄せていた。丁度そのとき、日本計算機販売(略称ビジコン)という電卓メーカーが半導体を発注してきた。確か69年春ごろだった。ビジコンは科学計算などに使う高性能電卓の発売を目指しており、新興のインテルに13種類もの半導体の生産を頼んできた。インテルはまだ3種類の半導体しか生産していない段階で、13種類は多すぎた。
この商談をどうしようかと迷っていたときに新たな提案をしてきたのが、スタンフォード大の研究員からインテルに入社したテッド・ホフ氏(現インテル・フェロー)だった。ビジコンの設計では計算、キーボード制御、プリンター制御など必要な一つひとつの機能ごとに専用半導体チップを使うことになっていた。ホフ氏は「一つのチップに複数の命令コードを組み込んだ集積回路が何故できないのか」と考えた。MPUとは正にこんな回路のことだ。
ホフ氏は数か月後のビジコン幹部の再訪問までに詳細な設計を終えた。全く初の試みだったが、話を聞いたビジコン側はホフ氏の提案を受け入れてくれた。ビジコンと製品を共同開発することで合意、後にインテル入りする嶋正利氏(現ブイ・エム・テクノロジー副会長)を派遣してくれた。世界初のMPU「4004」はこうして誕生した。
日経新聞(2023.3.26)の追悼
「ムーアの法則を発表したのは米業界誌の創刊35周年記念号への寄稿だった。まだインテル創業前の65年で「今後10年は続くだろう」との控えめな書き振りだったが、法則はそれから58年後の今も隆々と生きている。例えば、現在のスマートフォンは51年前(72年)に打ち上げられた「アポロ17号」のコンピューターの1千万倍以上の性能があるという。ムーア氏の法則に沿った進化だ。法則というより業界の経験則、努力目標といった方がいいが、それがあったればこそ、「努力を続ければ電子機器の価格が低下し、デジタル化の時代が加速する」とハイテク産業従事者を鼓舞し続けたことは間違いない。
ムーア氏の洞察を土台にビジネスモデルを構築したのがGAFAだった。コンピューティング能力は飛躍的に高まりつつ、デジタル機器やサービスの価格は飛躍的に低下する。そこに照準を合わせ、アップルやアマゾン・ドット・コムは顧客と売上高を指数関数的に増やしていった。日本企業は残念ながら、デジタル時代へのこだわりと予見が甘く、従来型産業構造から脱することはなかった。ムーアの法則のように、72年型の小型乗用車が「2年で倍」のペースで燃費改善を続けたとしたら、今では1リットルの燃料で地球を20周以上できる計算だが、そんなことは起きることはなかった。
97年に名誉会長に退くと、夫人とともに「ゴードン・アンド・ベティ・ムーア財団」を設立し、保有するインテル株を原資にして慈善活動に注力した。相前後して米マイクロソフトの共同創業者、ビル・ゲイツ氏も財団を設立して疾病予防などの活動に力を入れており、「富豪」による社会貢献の手本となった。半導体での復活をめざす日本のエレクトロニクス産業では、今後10年で10兆円規模の官民投資が進む。ムーアの法則の本質を実践する時かもしれない。(本社コメンテーター 中山淳史)
Gordon Moore ゴードン・ムーア | |
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1978年 | |
生誕 | 1929年1月3日 カリフォルニア州ペスカデロ[1] |
死没 | 2023年3月24日(94歳没) ハワイ州ワイメア |
住居 | ハワイ州 |
国籍 | アメリカ合衆国 |
出身校 | カリフォルニア工科大学(PhD) カリフォルニア大学バークレー校(BS) |
職業 | 電気工学者、実業家 |
時代 | 20世紀 - 21世紀 |
著名な実績 | インテル創業 ムーアの法則 ゴードン・アンド・ベティ・ムーア財団 |
ゴードン・ムーア(Gordon E. Moore, 1929年1月3日 - 2023年3月24日)は、アメリカ合衆国の電気工学者、実業家。半導体メーカーであるインテル(英語: Intel Corporation)の共同創業者[2]。