私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

貧乏のつらさと恨み

 市村は一時「経営の神様」と評され、多くの経営者を集めた「市村学校」は有名である。
1900年、佐賀県生まれ。昭和4年、理研感光紙代理店を経て11年、理研感光紙(リコー)代表取締役。20年、三愛創立、三愛をモットーに明治記念館、日本リースなどリコーを中心とする「三愛グループ」を率いた。43年、新技術開発財団設立した。

 彼はアイデアマンとして多くの事業に成功し、会社を経営するようになる。そして「経営の神様」として一時マスコミの寵児となり、若手経営者や著名文化人が市村を取り巻いて彼に教えを乞うた。世間はこれを「市村学校」と呼んだが、彼は佐賀県の一貧農の子に生まれ、学校へもろくにやってもらえない境遇に育った。
 市村が9歳の頃、貧しいためとても上の学校になぞ行く望みはなかったが、ある日、彼の祖父が「お前は学校の成績がいいけれども、とても上の学校に出してやれそうもない。しかし学校へ行ける一つの方法を教えてやる」と言い、メスの子牛を一頭買ってくれた。
「その牛は次々に子を産んで、お前が中学や大学へ行くころには何頭かに増えるだろう。それを売れば学校に行けるから」ということだった。
 市村はすっかりうれしくなり、それからというものは、夢中になって子牛の世話をした。一銭、二銭のこづかいをもらうと、それをためる。正月やお祭りのときでも遊び道具や見世物も我慢し、こづかいをためた。牛にやるオカラや飼料を買うためである。自分でも草を刈ったりさつま芋のつるを集めて食べさせたりした。
 幼いながらもあらゆる忍耐を自分に課して牛をかわいがった。しかし、思いもよらない事情から、この愛牛とのつらい別れがやってきた。家の借金が払えなかったからだ。それを次のように語っている。

「一、二年すると子牛は実にりっぱな雌牛に成長した。そろそろ子も産めるようになったある日のこと、私の家に『シッタリ』という人がきて、私の牛を持っていくという。私はびっくりした。『この牛はおじいさんから僕がもらって、おこづかいをためて育てたんだ』と、くやしさのあまり執達吏にかみついたのを覚えている。とうとう祖父に『しかたがないのだよ。お国で決められたことなのだから、我慢せい』といわれてあきらめたが、心中ではどうしても納得がいかなかった。
秋の夕暮れ時の道を、たんせいこめた牛が長い影をひいて引かれてゆくのを、涙をこらえながら、村はずれまでついて行き、牛の姿が見えなくなるまで見送っていたが、この出来事のために、なんとなく世の中のことに深い疑問をいだくようになったような気がする」

 後年、成人して地方銀行の給仕を振り出しに、大陸(中国)を渡ったり、保険のセールスをしたり、共産主義にかぶれたり、理化学研究所の大河内正敏に見込まれて理研へ入ったのも、一見順風に見えながら、波の下では常に貧乏のつらさとそれを克服しなければ生きていけない自戒があった。そこには山と谷の交錯した複雑な人生であったという。
 最後は、リコーコンツェルンの総帥となり、「市村学校」の校長として、多くの有名経営者と子弟を抱えたが、市村が納得のいかないかぎり、権力や金力に対して徹底的な反抗を試みて譲らないようになったのは、この事件が大きく影響していると思えるのだった。


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