私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

秘書業務「カバン持ちだけにはなるまい」

「明治21年(1888)山口県生まれ。同44年(1911)東大卒。中学教師、新聞記者など職業を変えた後、大正8年(1919)宝田石油に入社。合併後日本石油外事課長代理、秘書課長。取締役下松製油所長で終戦。昭和33年(1958)社長、同36年(1961)相談役。同40年(1965)死去、77歳。」

*栗田は宇部市の片田舎の寺に生まれ、小児マヒに罹る。東大文科を出て教職に就いたが、実業に転じたい気持ちを抑えきれず、新聞記者など職業を転々とする。運よく30歳を過ぎて西本願寺の僧侶養成学校の先生であった三島海雲の縁でカルピス会社の広告係りとなるが、これも一年で大整理され、宝田石油に就職する。大正10年(1921)合併で日本石油となり2年後の36歳で秘書課長となる。当時の秘書課は職員や工員すべての人事も兼務で扱ったので広範な業務があった。採用、昇給、異動、査定、苦情の聴取などなどの業務を経験しながら20年近く側近奉仕が続いた。彼は身体的ハンディを武器に考え、高い志を持ち勉強を続けた。多くの履歴書執筆者はいるが、彼の如く自分を「淳」と三人称で呼び、客観視して醒めた目で自分の履歴を書いた人は初めてであった。彼が永年の秘書業に対する矜持の考えを次のように説いている。

「秘書という仕事は気苦労の多いものである。またきわめて伸縮性にも富んでいる。やろうとすれば仕事は際限なくある。のん気に構えるなら、招かれざる客との応対で用はすむ。卑屈になると鞄持ちに堕ちる。淳はブレインをもって任じた。といっても、その他をしなかったというのではない。ただ鞄持ちだけはご免こうむった。」
(「私の履歴書」経済人四巻 58p)


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