私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

父の寛容

 岡野は元治元年(1864)静岡県生まれで、明治18年(1885)豆陽中学師範を中退し、帰農する。そして同19年(1886)貯蓄組合共同社を設立。その後、同28年(1895)根方銀行、駿東実業銀行を経て、同45年(1912)駿河銀行を設立した。
 戦時中、大蔵省が小銀行の破綻を防ぐことを目的として、銀行の経営基盤を強化するために銀行合同を推進していく1県1行化に反対した人物として有名である。
駿河国・愛鷹村の名主の家に生まれた岡野は、豆陽学校師範科に在学中の明治18年秋、20歳のとき、一帯を襲った飢饉を目のあたりにする。彼は安閑として学校に行くことを望まず、中退して家の危機を切り抜ける。そのうえ、村の窮乏を救うために貯蓄組合共同社を設立し、それが一応成功する。
 しかし明治34年に九州の各地に銀行の破綻が続出すると、近畿、東海、関東一円にも広まり、全国的金融恐慌となった。このとき、彼が主導する銀行も重要取引先が破綻してしまった。
 これが外部の評判となると取り付けが始まるのは必定のため、株主や預金者に迷惑がかからないよう、緊急に手当てをする必要が生じた。
そこで岡野は悲壮な決意で、父親の理解と協力を求めることにする。その内容は、「今回の企業破綻は、全国にわたる恐慌の余波だとはいえ、自分の銀行経営に対する経験は浅く、貸付に対する研究が不行届きであったから」と、まずそのことを父親に深く詫びることだった。
内容は、「今回の貸付会社の破綻によって受けた損害は多額とはいえ、駿東実業銀行にとって致命的なものではない」と必死で説明をした。最後に「手当てをすれば十分に助けることができますからお願いします」といった途端、次のような言葉が返ってきて感泣する。
「手当てとはなにか、と父は静かに次の言葉をうながした。『手当てというのは・・』私はちょっと言葉を切って『手当てというのは、まことに申しわけございませんが、岡野家伝来の田畑を担保に入れ、他の大きい銀行から、一時融資してもらうことであります。借りる先は第三銀行、金額は三万円、大体当たってみてあります』そういい終わると、私は決死の意気込みで、きっと、父の顔を仰いだ。『馬鹿ッ』と一喝、怒鳴りつけられるかもしれない。そう思って仰ぐと、意外にも父の顔はなごやかで静かであった。『それで銀行が助かるなら、それで結構だ。お前の信ずるようにやりなさい。田畑はなくしても、また買うことができる。人様には絶対迷惑をかけてはならない』。あまりにもあたたかい父の言葉に、私の目からは思わず、熱い涙が落ち感謝の言葉さえ、しどろもどろであった」(『私の履歴書』経済人二巻 373p)
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 銀行は信用が第一。人間も信用が大切。
 岡野の父親は、息子のために家伝来の田畑を担保に入れることを承認しました。代々の名主として、村全体の存亡を考えた結果の決断だったのでしょう。
このエピソードは「この親にして、この子あり」の感が強くします。


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