私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

母の参観

 永野家の6兄弟は優秀だった。早逝した三男以外の5人が東京大学、1人は東北大学を卒業している。永野は東大では柔道部の猛者で、財界においては「財界の四天王」の1人として活躍した。
 明治33年(1900)、10人の兄弟姉妹の二男として島根県で生まれた彼は、大正13年(1924)東京大を卒業し、浅井物産に入社する。大正14年(1925)富士製鋼再建のため支配人となるが、昭和9年(1934)の合併で日本製鉄に勤務する。そして戦後の昭和25年(1950)、分割で富士製鉄社長となるが、45年(1970)再合併で新日鉄会長としても活躍する。
永野は少年時代、手に負えないワンパク坊主だった。女の子だけでなく、家の前を通る子供を片っ端からつかまえてケンカを売った。相手が向かってくれば石を投げ、泣くまでいじめた。そのうち彼が家の表に出ると「永野のいたずら坊主が往来に出たぞ、みんな家に隠れろ!」と、大人たちが子供を隠すようになった。
 永野がいたずらをするたびに、母親は手みやげを持って詫びてまわった。父親が死んだとき、母親は43歳だった。彼は学校でもワンパクぶり、無軌道ぶりを発揮して先生にも手を焼かせたが、母親は先生のところに行き、詫びたあと子供の欠点や勉学の状況をよく聴いていたという。
母親は直接彼を叱らない代わりに、無言で次のような行動を示し、永野に「『勉強しろ』と言われるより心に響いた」と言わせている。

「父が死んだのは八月だったが、それからしばらくすると、母の姿が教室にみられるようになった。一週間に二度三度、黙って教室に入ってきて、うしろから立ったまま授業を参観するのである。それは私が中学を卒業するまで続いた。母は私だけでなく兄弟全部に同じようにそうした。勉強せよとは言わないけれども、母が容易ならぬ心構えで私たちを見守っていると言うことが痛いほど背中に感じられたのであった」(『私の履歴書』経済人十二巻 18p)
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 私も小学校時代、父兄参観のときは緊張して授業を受けましたが、永野の母親のように、週に二度、三度と教室に入ってこられるとたまりません。
 しかし、母親の子供たちに対する教育の覚悟がひしひしと感じられますから、子供たち全員がその期待に応える気持ちになったのでしょう。思わず唸らされる、無言の教育といえるでしょう。


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