梁瀬はヤナセを外国車輸入の最大手企業に育て上げ、日本テレビジョンも設立し、動画製作にも尽力した人物である。
彼は大正5年(1916)東京都生まれで、昭和14年(1939)に慶応大学を卒業し、父の経営する梁瀬自動車工業に入社する。梁瀬の父親は、先祖が甲州・武田信玄に仕えた士族出身だったのでこれを誇りとし、アイデア・マンでもあり強大な指導力をもち、家庭内でも帝王だった。
彼は生まれつき病弱で吃音だったので、父親から「できそこない。おまえは武田勝頼以下だ」と決めつけられ、ことごとくつらく当たられた。そして、彼の社長就任に最後までためらい、経営戦略をめぐっては絶えず対立し、父親が息子の彼に対し何度も「社長解任」の辞令を出した。
このような環境のため、彼は武田勝頼に対する好奇心も強まり、勝頼に対する書物を読み漁り、さまざまな教訓を得ることができた。それは、勝頼は人並み以上の能力があり、素質は十分あったが、父のあまりの偉大さを常に大きな負担に感じ、信玄の死後、部下の信望を得ようとあせって無謀な戦を挑んだ。そのため、37歳の若さで天目山の露と消えてしまったという教訓である。
そこで彼は「父に負けまいとあせるのは危険」「コツコツ努力するのが2代目の道」と悟り、入社第一歩を修理工場のナッパ服勤務からスタートし、初めて自動車を売ったのは10年目という遠回りの道を選んだ。後年、彼は2代目への助言を次のように述べている。
「二代目が責任を与えられた時、心がけるべきは何といっても、その立場に生まれたという感謝の気持ちを持つことだ。そして人にほめられたいと、力以上のよい格好を見せるのも慎むべきだ。これは、私が武田勝頼〝兄貴″から得た二代目経営者への教訓である。
経営者が一番身につけなければならないのは、徳であり、徳のない人は経営者になることはできない。徳とは思いやりの気持ちと、自分自身の感謝の気持ちが生み出すものだ」
彼ほど父親の経営方針に反発し、それを正直に「私の履歴書」で告白しているのも珍しい。2代目経営者の苦労や難しさをよくわかっている彼が、「私の履歴書」掲載の最終日に2代目に贈った、心すべき留意事項がこの引用箇所「父に負けまいとあせるのは危険」でした。
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