私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

鬼軍曹の存在

1940年樺太生まれ。二所ノ関部屋に入門し21歳8か月で第48代横綱に昇進。柏戸とともに「柏鵬時代」を築く。1971年現役引退。一代年寄「大鵬」を襲名。2005年、相撲博物館長に就任。幕内優勝32回。

1940年(昭和15年)に樺太(現・ロシア・サハリン州)に生まれた。出生の直後に激化した太平洋戦争によってソ連軍が南樺太へ侵攻してきたのに伴い、母親と共に最後の引き揚げ船で北海道へ引き揚げた。北海道での生活は母子家庭だったことから大変貧しく、大鵬自身が家計を助けるために納豆を売り歩いていた話は有名である。
1956年9月場所にて初土俵を踏んだ。入門当初より柏戸と共に横綱確実の大器と評されていた。序ノ口時代から大幅な勝ち越しで順調に番付を上げていき、十両目前の9月場所では3勝5敗で負け越したものの、幕下時代の負け越しはこの1場所のみでそれ以外は全て6勝以上挙げている。東幕下筆頭となった1959年3月場所で6勝2敗と勝ち越して十両昇進を決めた。
双葉山(時津風)、栃錦(春日野)、若乃花(二子山)、大鵬の大横綱4人の「私の履歴書」を再読して、次のことがわかった。4人の初土俵から十両への期間は、双葉山は2年8場所で、栃錦は2年8ケ月、若乃花は2年4ケ月、大鵬は2年9ケ月。いずれも昇進が3年に満たない。
しかしその後、十両から横綱への昇進は、双葉山7年(1931~1938)で25歳、栃錦10年(1944~1954)で29歳、若乃花9年(1949~1958)で29歳、大鵬は2年(1959~1961)で21歳だから、大鵬の際立った強さと速さに驚かされる。
しかし、異例のスピードで横綱昇進を果たした大鵬は、この昇進を裏付ける稽古量を次のように書いている。

コーチ役の十両・鬼軍曹の滝見山に最後のぶつかり稽古で散々しごかれた。土表に叩きつけられ、これでもかこれでもかと引きずり回され、へとへとに倒れ込むと、口の中に塩を一掴みガバッと入れられる。またぶつかって気が遠くなりかけると、バケツの水や砂を口の中にかまされる。この特訓の上に一日四股400回、鉄砲二千回のノルマがあった。

昔は、鍛えたい力士には青竹でバシバシと体中を何度も殴りつけたとも聞く。青竹は重くて丈夫だから選んだのだろうが、力士の体も頑丈だ。しかし何度も殴られると青竹も砕かれ、竹の先が箒の如くになってしまうという。今こんな猛烈な稽古を兄弟子がつけると若者弟子はすぐに逃げ出し、両親やマスコミに「パワハラで被害甚大」と駆け込むことだろう。
昔、「巨人、大鵬、卵焼き」は子供の好きな言葉であり、大人の好きな言葉は、「大洋、柏戸、水割り」でした。彼は何かにつけて巨人の長嶋を引き合いに出されたが、そんな時、彼はこう言った。「あの人のような天才でもなければスターでもない。私は南海の野村捕手のように下から苦労して叩き上げた努力型なんだよ。ああいう選手の方に親しみを感じるね」と。南海の野村捕手のように「ひまわり」ではなく「月見草」が似合っていると書いているのを見て私は驚いたのでした。

余談ですが現在(2017年)、序の口以上の力士になった人のうちで、十両になれるのが50人に1人、前頭が100人に1人、大関は200人に1人、横綱は600人に1人ぐらいと言われています。
相撲協会に在籍している力士は、約640名だから、横綱になれるのは1人です。それも毎年横綱に昇進するわけではないから、2年であれば1280人分の1になり、白鵬が10年も横綱を務めているのは、超人としか喩えようがない。本当に凄い大横綱です。


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