鬼のスパルタ教育

長嶋は1936年、千葉県生まれで、立教大学を卒業後、読売ジャイアンツに入団する。闘志溢れるプレ-と無類の勝負強さで巨人の4番打者として活躍し続け、多くの国民を熱狂させた。「ON砲」として並び称された王貞治とともに巨人のV9に大きく貢献した。最優秀選手5回(日本シリーズ4回)。引退後すぐに監督となる。1988年、野球殿堂入り。現在、巨人軍終身名誉監督でもある。

彼は1954年、立教大学を入学すると、野球部では鬼と呼ばれた砂押監督に目をかけられ、自宅に呼んでの練習など「特別扱いの猛練習」を重ね、正三塁手となる。監督は戦争経験があり、鬼のスパルタ教育者として六大学に勇名をはせていた。当時31歳の監督は自分にも厳しいが、手を抜くことを知らない。シートノックを捕り損なうと連帯責任で練習は一からやり直しだった。
夕暮れまで練習し、やっと合宿所へたどり着くと、飯を詰め込む暇もなく「長嶋、いるか、これから夜間練習をやる」と特訓が待っていたという。
伝説となった月夜のノックは有名である。ボールに白い石灰をなすりつけただけで、暗闇の底から「いくぞ」の声で強いゴロが飛んでくるものだった。

「いいか、長嶋、ボールをグラブで捕ると思うな。心で捕れ、心で!」そのうち「お前はまだグラブに頼っているのか。そんなもの捨ててしまえ」と怒鳴る。エラーをするとすぐグラブを外せ、となる。
だが、素手で捕ると球際が強くなって変化に対応できるようになる。一番やさしいところでバウンドを処理するのがフィールディングの極意だ。真剣に球と勝負していくと、それが分かってくるから不思議だった。

彼はバッティングの練習も普通の倍も重いマスコットバットを千回振るのがノルマだった。打撃練習で3時間、ぶっ通しでマスコットバットを振る。投手は入れ替わり立ち代り7人いる。そこまでしないと土台ができないからだ。練習しすぎで翌朝、腰が曲がらずトイレではしゃがめない。どうしようもなく中腰のスタンダップ姿勢で用を足した経験も多くあったそうだ。彼には守備と打撃専用の4年と3年のコーチ二人がついた。監督とコーチの三人がかりで鍛えられる方は大変だったと彼は述懐している。

彼の陽気さや華麗な守備と帽子を飛ばす派手な三振など、ショーマンシップが人気を博した。「ホームランを打ってスキップしながら生還する姿」や「暴投である高めのボールをホームランし、頭のあたりにきたウエストボールの球を打ったときはジェスチャー入りで笑いながら生還している姿」などはユーモアがあって、みんなを楽しませたものである。
マスコミに「長嶋は野球の天才である。動物的カンの男だ」と書かれ、それがいわゆる長嶋像として定着している。しかし、彼は「天才肌でもなんでもない。夜中の1時、2時に苦闘してバットを振っている。自分との技への血みどろの格闘を一人で必死にやっていた」と反論している。
ところが、同じような血のにじむ努力はほかの一流打者もみんな猛練習しているので、あまり説得力はない。しかし、次の描写が彼らしい。しかし、

「絶好調の時は、怖いものなし。どんな球でもいらっしゃい。インコースだろうがアウトコースだろうが、この状態になると『来た球を打つ』だけ。私が『来た』と思えば、それは私のストライクゾ-ンとなる。悪球打ちというが、敬遠ボールやウエストボールをホームランにしたり逆転打にしたのも、マイゾーンに入ってくるからだ。そんな時、投げた球がソフトボールぐらいに見えて打てない気がしなかった」

このように、勝負時にはめっぽう強く、他人の悪口を言わない長嶋はやっぱり今でもみんなのヒーロー像だ。