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適材適所の活用

実業家、テンプスタッフ創業者。テンプホールディングス取締役会長。篠原学園専門学校理事長。アメリカの『フォーチュン』誌に12年連続で「世界最強の女性経営者」に選出された。

篠原は1936年神奈川県生まれで、1953年に高木学園女子高等学校を卒業する。53年に三菱日本重工業株式会社に入社し、57年同社を退社。58年に東洋電業に再就職し、結婚するが、1年で離婚。家事手伝いを経て69年にスイス・イギリスに2年間留学する。71年にオーストラリアの市場調査会社ピーエーエスエー社に社長秘書として入社する。このときの驚きは、女性の管理者が何人かいて、一般の女性社員も責任ある役割を与えられていた。男女とも自分の好きな服装でテキパキと仕事をしていることであった。そして、「女性がこうして働ける世界があったのか。日本ではなぜそうではないのか」と彼女は疑問を感じたのだった。また、この豪州企業は、この会社の社員が休むとその仕事を埋める人材を派遣してもらっていた。この「テンポラリー・スタッフ(臨時社員)」のシステムに興味をもって帰国したのだった。

帰国後、1973年豪州で知った人材派遣業からヒントを得て人材派遣会社のテンプスタッフ株式会社を資金100万円で設立し、代表取締役に就任する。
当時は、東京オリンピック、大阪万博の後でもあり、目覚しい経済発展を続けている日本市場に、外国企業が猛烈な勢いで東京などにオフィスを構え始めていた。英語がわかり英文タイプが打てる日本人スタッフは限られていたので、企業は人材確保に苦労していた。
彼女は、「即戦力がほしい」という外資の需要と「技能を生かせる仕事がしたい」という日本人女性の潜在需要を結びつけた。彼女の仕事は外回りの営業と登録派遣スタッフの職場紹介が中心で、市場拡大に専心した。

しかし、売上が上がるほど人材派遣は企業に請求書払い、派遣スタッフには現金払いのため、資金繰りに悩むことになった。この問題も国民金融公庫の融資を得ることで解決することができ、84年には名古屋と札幌に支社開設する。そして85年には銀座と新宿に支店開設し、86年渋谷、東京駅前支店の開設など順調に事業を拡大していった。

当然管理職の育成が追いつかず、支店長は公募で採用することにした。支店も増え社員も100名ほどになったが、社員は登録スタッフの中から採用した女性ばかりだった。女性支店長たちは、受話器を置く暇もないくらい派遣依頼の対応に忙しかったので、顧客の要望に応じられるスタッフとの調整に追われ、目の前のことで手いっぱいだったという。彼女はここで次のように考えた。

支店長に対しては「任せる、褒める」の方針で、特段の指示も出さず自分で考えさせてきたけれど、社員が100人、売上高が100億円になるとそれではいけないに違いない。組織にもやり方にも限界が来ているようだ。そこで彼女は決断する。異業種でバリバリ働いていた若手男性をスカウトすることにし、成功する。それがリクルートの営業を担当していた水田正道である。

しかし彼は同僚5人と一緒に彼女に本格的に経営改善をするならと入社条件を突きつけてきた。彼女は水田を信頼していたのでこれを受け入れた。それが「経営計画の策定、計数管理、成果主義の3点を経営に採り入れる」ことであった。
これを採用することで支店長を含めた大幅な人事異動、組織整備、社内改革を行い、異業種経験をした適材適所の人材に業務を任せた。この「適材適所の人材に業務を任せる」決断は一大決意が必要ですが、これを行うことにより彼女が全体のマネジメントを行うことができ、難しいガラスの天井を破ることができたのでした。


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