私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

過去の独房 独房体験の告白 石原廣一郎の場合

京都生まれ。立命館大学卒。大正5年、南洋に渡る。9年南洋鉱業公司(石原産業)設立。二・二六事件では叛乱軍に資金を提供して逮捕された。戦後、A級戦犯に指定されたが不起訴。社長に復帰し再建に成功したが、公害紛争に巻き込まれた。

 石原は、昭和二十年十二月十日、GHQから戦犯容疑者として、岡部長景(子爵)、真崎甚三郎(大将)と一緒に巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)に収容されました。

「MPにつきそわれて玄関わきの待合室にはいった。そこで長時間待たされたあげく、呼び出されて三回もすっ裸にされ、所持品の検査やら身体検査を受けた。最後には頭の上から足の先までDDTをふりかけられた。それがすむと私たちは全身粉だらけの姿で、片手にトランク、片手に夜具のはいった大きな袋をぶら下げ、MP二人につきそわれて長い廊下を歩かされた。人には見せられない姿だった。階段を上がると、そこに監房が並んでいて、その廊下の奥の二十七号が、私の“へや”だった。
『ガチャン』と、かぎがかかった。その音を聞くと、覚悟は決めていたものの、さすがに不安になって、私はその場にすわり込んだ。が、よく見ると三畳の独房だが水洗便所、洗面所、物入れまでついていて、二・二六事件で拘置されたあの憲兵隊の拘置所とはだいぶようすが違う。そう思うと初めて落ち着きが出てきた。
 当然のことだが、ここでの生活には大将も子爵もなかった。朝、食事を受けとるため、みんな房を出て一列行進をする。(中略)東条英機元首相、板垣征四郎元大将らの姿も行列の中に見えた」

調べると、巣鴨プリズンでは、A級戦犯と60歳以上の高齢者・病人以外は、全て就労を命じられていました。
プリズン周辺の道路整備や運動場、農園、兵舎・将校用宿舎建設等の重労働を命じられ、午前と午後に1回ずつある5分の休憩と昼食の休憩時にしか休めない。私物(自分の持ち物)は一切禁止で、全員制服着用で行わなければならない規則でした。
長い拘禁生活と裁判の疲労で、体力の落ちた戦犯たちには重労働であったといいます。未決囚とはいえ、すでに犯罪者として扱われている感じです。
しかし、前述の河田のように独房の中で「一人ぽっちで、口をききたくても、看守も応えない」苦痛よりも、作業をする方が精神衛生上、良いのかもわからないとも思いました。


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