私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

過去の独房 独房体験の告白 河田重の場合

茨木県生まれ。大正4年東大卒。昭和7年、日本鋼管入社。終戦後は常務で鶴見造船所長から社長となる。38~41年社長。

河田は、川崎疑獄という川崎市が失業救済事業を行う際、日本鋼管が川崎市に賄賂をおくったという嫌疑を受け、横浜の刑務所に収監されました。そのときの心境を次のように語っています。

「独房生活はいまもって身ぶるいがでる。私はそこで百十日をすごした。よく病気にもならず発病もしないで出られたものだとおもう。(中略) 朝起きて掃除がすめば、検事の呼び出しがないかぎり、坐ったきりの毎日である。一人ぽっちで、口をききたくとも相手がいない。看守さえ口をきかない。ものを言いたくともいえない苦しみを、私ははじめて味わった。
 むかしから“懊悩”ということばがあるが、私は音もなくしのび寄ってくるその懊悩に、へとへとになるほど苦しんだ。語る相手もなにもない独房のなかでぽつんと坐っていると、ぼんやりとなにかを考える。するとその考えにそれからそれへと枝葉ができては果てしなくひろがり、ついにはどうにも収拾がつかなくなってしまう。たとえば、いまごろ家で子供たちはどうしているだろうなんて考えると、それが次から次へと発展していって解決がつかなくなってしまう。
 独房にはいって、私はインテリの弱さをいやというほど知らされた。あんな環境におかれると、インテリほど懊悩にとりつかれやすくなるようにおもう」

河田は未決のままおかれ、7月から12月までの110日間のうち、取り調べのあったのはたったの10日間。取り調べのときはまったくの罪人扱いで、編み笠を被せられた情けない姿で検事の前に連れていかれたそうです。もちろん、当時の訊問は、拷問も平気で行われほどの厳しいものでした。執拗に、調書を見せながら「これを事実として認めれば出してやる」と強要するのですから、上述のような暗澹たる気持ちにもなったでしょう。いやぁー、筆者なら気が狂ったかもしれない。


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