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大成観光(現ホテルオークラ)社長。会長。第二次世界大戦後、連合国占領統治下の日本に於いて、持株会社整理委員会(HCLC)常務委員・委員長として財閥解体に当たる。HCLC解散後はホテルオークラの立ち上げに参加。日本ホテルの国際化の礎を築いた人物である。
野田は1897年、長崎の生まれで、大正7年(1928)東京高商(現一橋大学)を卒業し、三井物産に入社する。英語が得意だったことから、すぐシアトル出張所に配属された。しかし、米国人女性と結婚したため、人種偏見が強い当時の国際結婚は双方の家族や社内の抵抗を受け、やむなく翌年三井物産を退社する。
その後、日綿実業に入社、ニューヨーク支店長で活躍するが、日中戦争を契機に日米関係が悪化のため、1943年9月に、妻子を置いたまま強制帰国させられた。帰国後、嘱託として海軍省に出向。海外放送などの翻訳・分析に従事した。また軍令部に置かれた「対米研究会」に加わり、主にアメリカ人の国民意識について意見提言などで活躍していた。
敗戦後の1946年5月、持株会社整理委員会(HCLC)の委員となり、1949年11月に委員長に就任する。企業とGHQの間に立ちつつ、合計408社に及ぶ持株会社・過度経済力集中排除法指定会社の整理や財閥家族・役員の産業界からの追放という、世界でも類を見ない国家規模の産業再編成を指揮したのだった。
連合軍総司令部(GHQ)が日本で推し進めた二大改革は農地改革と財閥解体だが、彼は財閥解体を担当し、日本側交渉人として中心的な役割を果たした。彼は次のように詳述しています。
「GHQが財閥解体に取り組むのであるが、GHQの目的は、当初から日本産業の完全な破壊ではなく、世界の産業、商業、貿易の脅威にならない程度の解体であった。経済科学(ESS)局長クレーマー大佐は十月十五日にその線に沿った覚書を出し、四大財閥の自発的解体を促している。
三井、三菱、住友、安田の四大財閥はこれに抵抗したが、まず安田、そして最後に三菱が自発的解体に応じ、十一月四日、政府と協議のうえ解体案を作った。その骨子は①一切の株式と関係企業に持つ権利を、日本政府が設置する持株会社整理委員会に移管し、解体を受ける②三井、岩崎などの財閥一家はすべての事業から引退し、各財閥役員も辞任する――などであり、GHQもこの案を承認した。(中略)
委員会は五年間にこれら指定会社のうち、財閥本社的機能を持っている三十社を解散し、その他は資本関係を整理させ、これら会社が所有していた一億五千五百万余株、額面七十億七千四百七十余万円の株式と、財閥家族の所有していた一千万余株、四億九千七百万円の株式を処分し、それらの企業の従業員と一般投資家に分売した。
さらにGHQは財閥解体の趣旨をより徹底し、競争原理を導入するため、『過度経済力集中排除法』を日本政府に作らせ、その執行をも整理委員会にゆだねた。この方法に基づき、昭和二十三年二月には主要企業の大部分、三百二十五社が分割の対象企業としてあげられた。(中略)
だが、米ソ冷戦の進行とともに、米政府は対日占領政策を非軍事化から経済自立の促進に転換し、過度経済力集中排除法も『競争を阻害することが歴然たる場合』に限って適用することになり、結局、日本製鉄、三菱重工業など十八社を過度集中と認定し、うち三社を企業分割、四社に持ち株処分、三社に 一部工場の処分を指令したにとどまった。
持株会社整理委員会は昭和二十六年七月、役目を終えて解散したが、この財閥解体により、財閥ファミリーによる企業支配は全くついえ去った。今日、企業合併などによる巨大企業は復活したが、その資本的、人的な支配関係は、戦前の財閥支配時代とは一変したものとなっているのは周知の通りである」
朝鮮戦争勃発のため米ソ冷戦が始まり、急遽「過度経済力集中排除法」の対象会社になった325社が、日本の経済力に大打撃を与えないよう日本製鐵、三菱重工など大手18社に絞り込まれたと書いている。
それでも、この法の完全実施により、財閥による企業支配は大きく後退し、若い戦後企業の台頭を招く事になりました。
また同時に、高級官僚や財閥系の現役役員クラスは戦争責任を問われ追放となり、若手経営者を登用することになったため、この若手経営者の新しい感覚での経営が経済の活性化を産み、日本の産業を大躍進させる原動力となったのは周知のとおりです。
彼は歴史の転換点で難題に立ち向かい大きな仕事を成し遂げました。それはGHQの財閥解体の真意を見極め、日本産業復興に大打撃にならない落としどころを探り、決着させたことでした。
彼はこの委員会が解散した後、安田財閥が財閥解体で帝国ホテルを手放したため、帝国ホテルに並ぶ国際的ホテル建設の夢を抱いていた大倉喜七郎に協力し、1962年ホテルオークラ(現在のホテルオークラ東京)を開業させる。そして、社長、会長として1964年東京オリンピックを背景に、日本のホテルの質の向上に力を注ぎ、観光行政の強化や史跡・自然保護を訴え貢献したのでした。