私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

財産分離の担当官として

大蔵官僚、実業家。元大蔵事務次官。元太陽銀行頭取、太陽神戸銀行会長。

河野は1907年、広島県で生まれ、陸軍軍人だった父親が退官し東京で事業を始めたため、9歳から東京で育つった。1930年3月、東京大学を卒業し、大蔵省に入省する。1943年、軍属でシンガポールに赴任し、占領地域の財政金融を担当した。
そして、帰国後1945年3月、大蔵省復帰、主計局第1課長となるが、8月15日からの終戦後は、財政破綻状態のなか、1945年度予算の組み直しやGHQの費用(米軍駐留費など)を担当する終戦処理費、さらに警察予備隊創設費用など、戦後GHQ占領下の財政処理に奔走することになった。
しかし、彼は大蔵省からの出向により政府部内の憲法改正準備委員会に所属していたため、皇室財産の分離にも関与することになったのでした。

皇室財産は、明治の大日本帝国憲法下では御料(ごりょう)あるいは御料地(ごりょうち)と呼ばれ、帝国議会の統制外にありました。そして、御料そのものは憲法制定以前から存在し、大部分の御料の形成は憲法制定に深いかかわりがありました。それゆえ、それまでは皇室財産には膨大な御料(高輪、新宿御苑、各府県神社など土地)が含まれていました。
しかし、敗戦後の日本国憲法では、憲法上の明文により、皇室財産は国に属するものとされ、皇室の費用は予算に計上して国会の議決を経ることとなったのでした。その分離課程を彼は次のように証言しています。

「新憲法は昭和二十一年十一月三日に公布され、その半年後に発効することとなった。私たちはそれまでに明治憲法下の諸制度を変えなくてはならなかった。その第一番が皇室財政制度の切り替えであった。
それまでの皇室の会計は、国とは別に宮内庁の経理になっていたが、新憲法では、宮中府中の別は許されず、一切の皇室財産は国に帰属し、皇室の費用も国の予算に計上、国会の承認を要することとなった。皇室財産といっても、神器、御陵墓、正倉院など、それに伊藤博文が明治憲法発布前に編入したといわれる数百万町歩の帝室林野がある。これに一般国民と等しく財産税がかけられることになった。
評価の結果、皇室財産の総額は三十七億円、これにかかる財産税が三十四億円で、この分は物納で国に帰属した。残りも憲法の規定で国に帰属するが、一部身の回り品などを、天皇の私的財産として残した。その額は最高の財産税を払ったある財閥の人の手取り額を勘案して決められた」

皇室は儀式に用いる屏風や刀剣などのほか、海外の賓客などから献納された美術品、明治の院展などで買い上げた美術品(絵画・書・工芸品)や文化財を所有しています。この他、神器、皇居、各地の御用邸、御陵墓(伊勢神宮、仁徳天皇陵など)、正倉院、京都御所、御料牧場などもあります。これらの価格を時価評価し、財閥の創業者と同じレベルで財産分離を行なったと証言しています。財産税34億円を数百万町歩の林野で物納したそうですが、その中には山林や新宿御苑、各府県神社などの土地・建物も入っていました。因みにフリー百科事典で調べると、土地だけで20,136ヘクタールが2,718ヘクタールになり、全体の13.5%に縮小されました。どれでも、平成24年3月31日現在の皇室財産(皇居など15点)は土地・建物をふくめ、5141億2千2百万円となっていました。
それにしても、彼は新憲法における天皇(皇室)の位置づけと存続などを熟慮し、必要な財産保全をおこなったのでした。彼が歴史の転換点に立ち向かい、平穏に内容を決着させた功績は大きいと思われます。
また、昭和天皇の崩御後の1989年(平成元年)6月に、皇室から国庫に美術品約6000点が寄贈され、これを保存、研究、公開するための施設として三の丸尚蔵館が1993年(平成5年)に開館され、この中には、江戸時代の国宝級のものや画家・伊藤若冲の絵30幅シリーズも含まれていました。これも国家財産ですね。


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