虚脱感の克服

「昭和16年(1940)兵庫県生まれ。同37年(1962)甲南大学卒、武田薬品入社。同39年(1964)仏国、英国に留学。同48年(1973)食品事業部。同58年(1983)米アボット・ラボラトリーズとの合弁会社(米TAPファーマシューティカル・プロダクツ)の副社長を経て同63年(1988)国際事業部長、平成5年(1993)本社社長、同15年(2003)会長。同21年(2009)会長退任。相談役や顧問には就かず。」

*武田は父親の六代目武田長兵衛から愚息として期待されず、会社でも傍流の事業部に預けられ、部屋住みのように扱われてきた。彼は長兄の死から13年後の平成5年(1993)に社長のお鉢が回ってきた。長く医薬事業本部の本流ではなく、研究所や食品事業部、海外事業部など傍流ばかりを経験していたので、会社の改善すべきところが手に取るように解っていた。
 そこで、社長就任後、眠れる旧体質企業を戦闘集団に変える構造改革に乗り出す。しかし、直後に膀胱がんを患い自らの生命の危機に瀕しながらも社内の大抵抗を乗り越えて、世界的な企業に躍進させた。その彼が社長に就任して10年後、すっぱりと後継社長にゆずり、会長となるが、相談役にも顧問にも就かないと心に決めていたからであった。
しかし、彼は「会長が経営に口をはさむことは罪悪」と思っていたので、経営の第一線から身を引いたが、むなしさや淋しさが一年ほど続いたという。その後、社外活動に自分の役割を見つけ立ち直るが、その当時の本音の心境を次のように語っている。

「しかし、実際、会長の立場になってみると実に寂しい。空虚な空間をただぼーっとさまよっている感じである。長澤さんも顧問に退かれ、これまでのようにカンカンガクガクやり合うこともない。皆が社長の方を向き、まるで大事な宝物を全部さらわれたようで、正直いえば悔しい。相も変わらずひがみ根性だ。(中略)。
 社員は会長と社長の両方の顔色をうかがうのが仕事になってしまう。院政とか派閥とかトップの軋轢とかよく聞く話だ。これが会社をつぶす元凶である。「会社はお前のおもちゃじゃないぞ、このボケが」。心の中で自らに怒鳴り続け、近頃はどうにかひがみの炎も下火になってきた。」(日本経済新聞 2004.11.29)