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落第続きで発奮独学

映画監督、俳優、世界的な演出家で「世界のニナガワ」とも呼ばれる。
彼は1935年、埼玉県生まれ、高校で落第、画家を志して東京藝術大学を受験するが失敗し、画家になるのを諦める。「劇団青俳」に参加し、俳優として活躍していたが「自分は演出に向いている」と悟り劇団を結成し演出家に転向した。50歳のころまで俳優としても出演していたが、親しい女優の太地喜和子から「テレビの水戸黄門に出ていたのを見たわよ。お願いだから、俳優をやめてちょうだい」と言われ、俳優をやめ演出家専業となる。鮮烈なビジュアルイメージで観客を劇世界に惹き込むことを得意とした、現代日本を代表する演出家である。

アングラ・小劇場運動盛んな時期に演出家としてデビューし、次いで商業演劇の演出家に転向した。それ以後、若者層を中心に人気を集めた。
彼の演出作品は、現代劇からギリシャ悲劇やシェイクスピア、チェーホフなど海外の古典・近代劇に至るまで、多岐にわたる。平幹二朗主演の「王女メディア」は辻村ジュサブローに衣装を頼み、きらびやかだが、異様なかぶり物を使うなど舞台装置の巧さを合わせた斬新さは、海外でも評価が高く、その演出は「世界のニナガワ」とも呼ばれた。
また、彼は短気な気質で、苛烈な演技指導の厳しさでも知られ、「口よりも手よりも先に、物(特に、靴)が飛んでくる」と言われるほど、一般的にはスパルタ演出家のイメージが強い。一方で人情的で心優しく、「周りにだけでなく、同様に自分に対しても厳しい」姿勢で仕事をするため、数多くの俳優やスタッフから慕われていた。(彼の葬儀の参列者も異口同音で教育的で慈愛のある指導だったと述べ、哀悼していた)
彼は演出家として心構えの原点を次のように語っている。

ぼくの演出する舞台は開幕からの3分を大切にする。懸命に働いた人たちが夢を見ようと足を運ぶところが劇場だ。幕が開いたとたん眠気に襲われる芝居であってはならない。そう戒めている。

彼は高校落第、行きたい大学受験の失敗など挫折と孤立をかみしめ、独学で映画を研究し読書に耽り、監督やディレクターと接する現場から演出を勉強した。
なかなか世に受け入れない怒りを力に変え、前例のないアイデアを生み出した。歌舞伎など日本文化の伝統からヒントを得た桜吹雪、大階段、緋毛氈の絨毯、石の雨、赤い月などであり、英国や仏国、イタリアなどの広場や史跡、絵画にも多くのヒントを得てマクベスなど西洋もの演出だった。
この屈折した時代のエネルギーが新しい演出技術の模索に繋がり、新分野を開拓することができたのだろう。


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