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「明治32年(1899)静岡県生まれ。静岡師範学校を経て、大正10年(1921)東京高等工業(現:東京工業大学)の工業教員養成所を卒業し、神奈川県立工業高校教諭。同13年(1924)浜松高等工業高校(現:静岡大学工学部)助教授となり、「無線遠視法」(テレビジョン)の研究を開始。同15年(1926)同校にてブラウン管による伝送・受像を世界で初めて成功させる。昭和12年(1937)NHKに出向。同21年(1946)日本ビクターに入社。同45年(1970)副社長、同48年(1973)技術最高顧問。平成2年(1990)死去、91歳。「テレビの父」といわれた。」
*高柳は昭和21年に日本ビクターに入社以来、研究開発本部長として、あるいは技術本部長として未来商品の開発に取組んだが、後進の研究を指導、管理することも要請されていた。浜松高等工業の教授になってから後は、NHK、海軍の技術研究所、日本ビクターの各時代を通じて後進指導の立場にいたことになる。
毎朝、それぞれの研究担当者に来てもらいテーマごとにディスカッションを繰り返した。何を目標に研究を進めなければならないかを話し、それを達成するための手段、方法をみんなに考えてもらうためであった。これは自発的に彼らにどんどん提案してもらうためである。この考えは恩師の浜松高工の初代校長の関口先生が、「勉強は強制されてやるものではなく、学生の自発性が最も大切」という信念で指導されたのを実践していたのである。
こうような方法や体制だと、初めは研究者に戸惑いがあったが、いろんな経験を積み重ねていったん自信をつけると、今度は確実に自分で歩むことを覚え、思わぬところまで成長してくれたと述べている。彼の指導方法は具体的には次の通りである。
「若い研究員から「それはどうかな」と思われる提案があっても、頭ごなしに「それは私がやってみた時はダメだった。もっと他の方法を考えなさい」としかるようなことはしなかった。「それは結構だ。しかし、私は前にこういう経験をした。それを乗り越えて君のいい考えが実現するように努力しよう」と言って、自分で実験してダメだと知ったうえで、前に進ませるように指導した。
上の者だけが研究者のつもりで下の担当者を道具みたいに使うのでは、いい研究は出来るわけがない。これは研究組織に限ったことではないだろう。担当者自身がどこに問題があるかを知って、それを自分の責任で解決していくという体制が必要なのである。」
(日本経済新聞 1982.3.3)