私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

自然体で環境変化に対応を

水野は大正2年(1913)大阪府に生まれ、昭和11年(1936)大阪大学を卒業し、古河電工の子会社・大日電線に入社した。そして同17年(1942)、家業の美津濃商店に入社する。
その水野が七年制の甲南高校で四年間の尋常科を終え、高等科に進級するときのことである。理科と文科のいずれかを選択しなければならない。
父親からは、いずれ2代目を継ぐのだから文科に進むように言われていたが、水野は理科を選びたいと考えていた。
その頃、父親は長期の欧米旅行に出かけ、ドイツの見本市会場でヨーロッパの技術が想像以上に進んでいるのを見た。「これからは運動用品を作るにも科学的知識を身につけておくことが大切」と判断し、彼の理科の選択を許してくれたという。

この判断は正しかった。水野が炭素繊維のゴルフ用品や合板製のスキー用品、野球のバットやテニスラケットなど、次々と新素材を用いて開発を進め、事業拡大を成し遂げることができたからだ。
水野は父親のよき指導もあって、役割分担で大きく事業を伸ばすことができたが、2代目として、心して事業に取り組んだ考えを次のように助言している。

「父は国内に総合スポーツ用品メーカーとしての大きな足跡を残した。この分野で、私は父を抜くことはほとんど不可能に近い。私は、海外に目を向けた。まずCI(コーポレート・アイデンティティー)の導入から始めた。そしてTQCの実践、商品力の強化、社内の活性化と、次々に展開した。(中略)
経営トップは、気概だけの硬直姿勢では、経済の激流に押し流されてしまう。いかなる変化にも対応できる柔軟性を現代ほど求められる時代はないと思う。私は常に『自然体』を心にとどめてきた。二代目経営者としての大事な心得だと信じている。
私は科学の目でスポーツ用品の創造と改良に取組んできた。微力だが、戦後のめざましいスポーツの開花に、いささかの貢献をしたと思っている」(『私の履歴書』経済人二十五巻 162、163p)
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世の中が進歩するにつれ、消費者ニーズも市場も変化します。
今までの品揃え、販売経路、商品の素材なども常に見直し、改善していかなければなりません。しかし、水野は父親が担当する商品には手を出さず、会社のCIやTQCなどから始め、商品力の強化へと段階的に取り組んでいったのです。
これにより、父の経営と彼の新規経営の融和がスムーズに行なわれたと思われます。


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