笑いものになるのも

落語家、タレント、司会者。西川きよし、笑福亭仁鶴と並び、吉本興業の三巨頭と称されている。現在、『新婚さんいらっしゃい!』が同一司会者によるトーク番組の最長放送世界記録保持者として、記録更新中である。
彼は1943年大阪生まれ。商業高校時代は演劇部に入り漫才コンビを組んだり、大学時代は落研(落語研究会)に入り、「浪漫亭ちっく」の芸名で活躍する。

1966年、卒業して桂小文枝に弟子入りする。その時、落語家入門を許さない母には面接者を「建設会社の人事課長」と偽って師匠を紹介するなど、入門までには笑えないほどの紆余曲折があった。
しかし、内弟子時代にはユニークな企画をたてて実行する。それは上方の古典落語「東の旅」の実感をつかむため、大阪の玉造を出て伊勢神宮までの珍道中を、手甲脚半に編笠・わらじ履きという姿で弟弟子とコンビで行ったユーモラスな実績を持つ。

彼は幼くして父を亡くし、戦後の混乱のなか、母一人、子一人の所帯で育った。彼にとっては母子家庭のつつましい暮らしでは「笑われる」のも「笑いものになる」のも似たようなもので、同じ価値観だった。
しかし、むやみに目立たないように母からはしつけられたが、一人っ子だった彼は内気でよくいじめられた。そんな泣き虫が、芝居の物まねをするときばかりは人気者になった。「笑われたらあかん」という母親にいいつけに背くようで、負い目を感じつつも、喝采を浴びる心地よさを覚えていた。そこで、友達との時間が少しでも長くあって欲しいと願い、歓心をつなぎ止める答えをここで見つけた。

手探りで探すうちに、どうやら面白いことに人は引かれることがわかった。何をすればどうすれば面白くなるか。あれこれ工夫するうちに「笑い」の奥深さに開眼した。

友達が来たら、できるだけ長く一緒にいたい。人の顔色を読み、歓心をつなぎ止めようと工夫する癖は、ここから芽生えた。そのために、拾ってきた木ぎれ、針金、クギを使って遊びを生み出した。あれこれ考える癖は番組作り、創作落語に生きていると述べている。

この小学校時代、漫談師・西条凡児のラジオ番組「凡児のお脈拝見」で話し方のツボを学ぶ。初めは「家を出るときこんなことがあった」「この電車に乗ってこんな情景に巡りあった」と言った日常的な話題から入り、誇張を織り交ぜては笑わせ、飛躍し、やがて事実に戻って教訓めいたオチがつく。こうやって構成すれば小学生にも聞きやすい。笑いを作るには着眼点、構成、間、口調が大事な隠し味になっている。彼は聞かせどころや笑いのツボなどを子どもながらに分析をしては独り悦に入っていた。この分かりやすくなじみ易い話し方が若い人たちの人気を獲得することになった。

そして1967年、MBSラジオの深夜放送『歌え! MBSヤングタウン』に出演。一躍大人気となる。その後は、テレビのバラエティ番組『ヤングおー!おー!』、『パンチDEデート』、『新婚さんいらっしゃい!』などの司会を務め、全国区の人気者となった。21世紀になってからはテレビ出演を抑え、古典落語ではなく彼が現代世相をもとにして書いた創作落語は寄席や独演会「桂三枝の創作落語125撰」でも好評を博したのだった。