知識ではなく、知恵で生きる

代表する脚本家・劇作家・演出家である。

倉本は、1935年東京生まれで、1959年東京大学文学部を卒業する。ニッポン放送に入社し、本名でディレクター・プロデューサーとして勤務する傍ら「倉本聰」のペンネームで脚本家としての活動を行なう。
彼は会社に内緒で脚本活動を行なっており、当時は夜10時に会社を出て帰宅してからテレビの脚本を書き午前4時頃に就寝、2時間ほどの睡眠で出社する毎日だった。
しかし、彼が書いた他社のテレビシナリオが好評を博し、売れっ子ライターとなる。その後、約4年半勤めたニッポン放送を退職し、日活と年間の脚本数を決めて契約するシナリオライターになった。時間を見つけ東映の映画シナリオも担当する。この間は修行と思い書きまくったと述懐している。

そうしたとき、NHKから大河ドラマの脚本を依頼された。喜んだものの1974年の正月に始まった大河ドラマ「勝海舟」で問題が発生した。主役「海舟」役の渡哲也が体調を崩して役を降りることになり、代役に松方弘樹に決まるが、その出演交渉の説得役を彼が務めた。
この役は監督とかデレクターがやるものを「脚本家がやりすぎ」との批判がでた。また、このドラマ制作に際し、脚本家の彼と演出家との間でシナリオ変更の是非をめぐる問題がこじれたことで嫌気がさし、脚本を途中で降板した。
そのため、これに関する取材を受けた週刊誌の記事が彼の意図に反し、NHKを攻撃する内容に変わっていた。当時の制作局長には自分の軽率を謝罪したが、周りの多くの人からつるし上げられたという。とうとう嫌気がさして北海道に逃避した。39歳のときだった。

ススキノを毎晩飲み歩いた。半分ヤケだった。行く先に不安はあったが、サバサバした気分でもあった。飲み屋のバーテンダー、風俗嬢、その筋のお兄さん、単身赴任のサラリーマン、板前さんや地方のおじさんー。いろんな人たちとよく飲み、しゃべり、遊び回った。
東京で付き合っていたのは業界人ばかりだった。「そんな利害関係のある連中とばかりつるんでいて、よくシナリオが書けたよなぁ」としみじみ思った。

札幌に来て3年、ここには高度経済成長時代を経て構造転換の大波の中で衰退し、やがて見捨てられた残骸が沢山あった。彼は次第に北海道の厳しい自然とそこで暮らす人の人情の厚さに癒されていった。
彼がここで悟ったのは、知識ではなく知恵で生きることだった。彼は目からうろこが落ちる体験を何度もした。山の廃屋、海にも廃屋、そして農村の廃屋の他、炭鉱、山林業、水産業、農業など、かっての日本の繁栄を支えた人たちがいた。
これらの人たちと一緒に廃屋に泊り込み、親しく接することにより、これを原点に構想を膨らませるとシナリオが生まれた。地元の人たちの熱心で多大なロケ支援もあり、これがテレビで大反響を呼んだ「北の国から」だった。

彼が失意の底から北海道で学んだのは「知識ではなく知恵で生きること」だった。それを生かす場を、テレビ用のシナリオライターと俳優志望の若者を集めて働きながら学ぶ「富良野塾」として開設させたのでした。映画や歌舞伎には人財育成があるのにテレビにはこのシステムがない。
塾のルールは「若者は金がないから入塾料、受講料、生活費は一切なし」とする。夏場の農作業で全員が稼ぎ、住まいや学習の場も自分たちで造った。管理棟、稽古場、作業場、マキ小屋の他、レストラン棟、宿舎、サイロ棟、乗馬訓練用の馬小屋などもだった。ここでは「知識ではなく知恵で生きる」ことを「学び演技に生かす」のを信条とした。
2014年4月4日、富良野塾は幕を閉じたが、447人を受け入れ、卒業したのは380人。そのうちライターや役者をしているのは三分の一で、活躍中だと書いている。