私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

真ごころ一本で

板画家。20世紀の美術を代表する世界的巨匠の一人。
棟方は1903年(明治36年)、青森生まれ。家業の鍛冶職手伝いから1920年青森地方裁判所の給仕になる。ゴッホの絵画に出会い感動し、画家を志し上京する。そして1928年油絵が帝展に初入選する。1942年(昭和17年)以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続け「世界の棟方」と評価されるようになった。

彼が鍛冶屋の仕事をやめ、裁判所の給仕になっても好きな絵を描くことをやめなかった。朝4時半に起きて出所し、小使い部屋から火種をもらい、火をおこして大きなヤカンをかけ、麦茶がチンチンと沸き立つまでに掃除をすませ、火を小さくして絵の具箱を提げて出かけた。4kmほど離れた公園で、1枚か2枚描いても、帰るとまだ7時ころで、先生や事務員たちの出所には十分間に合ったという。彼は写生をするとき、描き出す前に必ず景色に向かって一礼をした。そして終わったあとも、ありがとうございましたと礼をすることを習慣にしていた。
ある日、友人からゴッホの「ひまわり」を見せてもらい驚愕する。絵は、赤の線の入った黄色でギラギラと光るような「ひまわり」が6輪、バックは目の覚めるようなエメラルドだった。彼は驚き、打ちのめされ、喜び、騒ぎ叫んだ。「いいなぁ、いいなぁ」を連発して畳をばん、ばんと力いっぱいに叩き続けたほどの感動だった。

これをきっかけに、彼はどうしても「東京に行きたい、画家になりたい」という気持ちを抑えきれなくなり、応援してくれる弁護士や仲間たち相談すると、彼らは「東京サ行くには、東京弁コ知らねばマイネド」と言って、ワを「君」、ガを「僕」と東京弁を教えてくれ、練習を始めた。
東京に出てもすぐには青森弁が直るわけではなかった。納豆売りのアルバイトを二人組んでやっても、相棒は如才ない東京弁がうまい男に交渉事を頼み、彼は青森弁丸出しなので、声が大きいのをさいわい「ナットウやナットウ、ナットウ」の掛け声専門だった。5年後に第9回帝展に「雑園」(油絵)を出品し入選するが、その後、版画の良さに気づき取り組み始めてその絵の力量が認められていく。彼の朴訥さと人柄が濱田庄司や柳宗悦など多くの実力者に愛され、評価されたのだった。この評価は、絵や板画に現れた彼の人柄・朴訥さだと思われる。これも青森の弁護士の次の言葉が代弁しているように思われます。

お前は目が弱いから掃除をさせてもあまりうまくないし、お茶を入れさせても、顔に愛きょうがあるわけではない。ただ心だけは神様だ。釈迦の弟子に陀羅という何もできないが心だけはいいのがいた、お前はダラのように心はいい。

この言葉どおり「心だけは神様」だったのだろう。そして、彼は自分の性分を次のように語っている。

私は子供の時から、喧嘩は一度もしたことがありません。今もしません。子供のことだから、信念という立派なものではなかったでしょうけれども、人と争いごとをするのは嫌いな性分です。

彼には方言のコンプレックスはあったものの、朴訥とまごころで人に接したので、誰からも愛され好感を持ってもらえた。「正直、親切、まごころ」、これも一つの生き方と思えます。


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