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日本の実業家。三菱地所社長、会長等を歴任。交詢社副理事長。福澤諭吉の曾孫。
1932年、東京生まれ。諭吉の次男・福澤捨次郎(時事新報社長)を祖父、捨次郎の子・福澤時太郎の次男として生まれる。小学校5年のとき肺結核を患い、慶應幼稚舎を卒業後は療養生活に入ったため、中学・高校へは行けなかった。23歳の時に病状が少しずつ快方に向かい、独学で大学入学資格検定(大検)を取り慶應義塾大学法学部に入学。1961年に同大学を卒業し、28歳で三菱地所入社。長く営業部門を歩み、老舗企業体質をグローバル企業体質に変身させた実績を残す。
彼が就職した三菱地所は老舗企業で殿様商売のように思えた。旧態依然とした商慣習の価値観でテナントは一業種一店の入居基準だった。会社は「テナントにビルの使い方を教える」という上からの目線で接していた。だからテナントの競争原理による創意工夫が生まれないので、ビルの魅力も失われていた。それを彼が営業部長の時にこれを撤廃した。
彼が新社長になったとき、すでに買収していた米ロックフェラー・グループの再建を行う。このビル群は、ニューヨーク・マンハッタンの中心部・48番街と51番街に19の商業ビルが四方に建ち、各ビルの低層階はひとつの建物として繋がっている。中心にあるセンタービルの半地下のプラザには、万国の国旗とプロメテウスの黄金像が立ち、夏にはカフェテラス、冬にはアイススケートリンクとして使用される。特に12月になると特大のクリスマスツリーが飾られることで有名である。しかし、米国で不動産不況が起き、賃料が一気に下落した。再建を図るために、特損をだす日本でいう民事再生法で法的整理を行おうとした際、ロックフェラー家当主のデービッド・ロックフェラーからときの総理大臣にまで手を回し、それを阻止させようとされたが、初志を貫き上場以来の1200億円もの赤字決算を断行することで再建が容易となった。また、丸ビルの建て替えで初めて指名入札を導入したときは、建設業界に恨まれた。それでも勇気をもって見直し「守るものは守り、変えることが道理にかなう」と考えに基づくものだった。彼の生き方の「物事の本質だけを追い求める」という考えの原点は、13年間の闘病生活にあると書いている。
自分の入院が長引いたら、親兄弟に迷惑をかけ続ける。天井の染みを眺めては「本当に済まない」と繰り返す毎日だった。(中略)入院歴でも年齢でも先輩の患者たちが病室に来て、「親に迷惑をかけているなんて気に病むな。病気を治すことだけを考えろ。エゴイストになれ」、「この病気は神経質では治らないよ。神経を太くして、無神経にならないといけない」と諭してくれた。
彼はこの助言を「他人は他人、自分は自分」と割り切ることも大事だと納得する。それまでは結核と一人で闘ってきたので孤独だった。年齢や出身が違っていても、同じ病気を抱える人たちのアドバイスは最高の薬になった。「病気を治すことに専念しろ」の助言で単調な入院生活に歯を食いしばる気力がみなぎってきた。そして、彼は人が一生涯で実体験できることなんて、たかがしれている。やる気次第で知識は広がると思い、長い療養生活で多くの古今東西の名著を読むことで未知の世界を勉強したのが後々に役立ったのだった。