本田は経営を副社長の藤沢武夫に任せ、自分は開発に没頭し、共にホンダを世界的な大企業に育て上げて、日本人として初めてアメリカの自動車殿堂入りを認められた人物である。
明治39年(1906)、静岡県に生まれた本田は、昭和3年(1928)、自動車修理業で独立する。同9年(1934)、東海精機を設立するが失敗し、浜松高等工業学校で機械について基礎から勉強し直す。
戦後、自転車用エンジンで成功し、同21年(1946)本田技研を設立、社長となる。そして、オートバイの生産を開始し、「ドリーム号」「スーパーカブ号」のヒット商品を開発する。これが順調に発展したため、自動車生産に進出した。
岩戸景気とオリンピック景気の狭間の昭和37年(1962)には、景気がだいぶ悪化して日本の代表的な大企業までが生産調整に四苦八苦していた。しかし、彼はその1年以上も前の36年3月には生産調整を断行していた。
そのとき世間からは何かと非難されたが、彼はちゃんとした見通しをもって行なっていた。アメリカのドル防衛でアメリカ経済が変調を来たし、日本にも影響しそうな気配があり、それに昭和35年(1960)から36年(1961)正月にかけての大雪で、日本の3分の2が大規模な交通マヒを起こしたため、販売不振となっていたからである。
生産調整は、2月にやればまだ寒く、代理店に先行き不安を抱かせないように強気で押し通し、暖かい季節に向かい景気もよくなりそうな3月に実施した。あくまで代理店の気持ちを考えたうえでの決定であった。生産調整は5日間とし、実施までの約1か月間にどんなことを行なうか、綿密な計画を立てた。
本田技研は急成長したため、生産機械や部品にアンバランスが目立ち、下請けの能力差による精度の違い、値段の高低などが生じていた。
社員全員でそうした矛盾を洗い出し、不具合を是正した。このため、生産調整で操業をストップしても、社員は機械の配置換えや手入れなどで、休業どころではなかったという。
その結果、生産を再開したときには、以前より質のすぐれた製品が、しかも低コストでできるようになっていた。ほかの企業は一般に好景気で、生産増大の傾向が強かったため、ホンダが操業停止をしても下請け業者からはクレームがまったくこなかった。
生産調整に関する本田の次の言葉は、その判断力と先見力、決断力がすぐれていたことをあらわしている。
「このときの調整ですっかり体制を整えたため、いまの世の中が不況だといって騒いでいるさなかに、私のところは反対に増産に転じていられるのである。昔から言われているように、ヤリの名人は突くより引くときのスピードが大切である。でないと次の敵に対する万全の構えができない。景気調整でもメンツにこだわるから機敏な措置がとりにくいのだ。どんづまりになってやむをえず方向転換するのではおそすぎる」(『私の履歴書』経済人六巻 245p)
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本田の例は、過剰生産に対応する事例ですが、今回のリーマン・ショックでは、全世界で市場全体の需要が急減し、大不況となりました。
トヨタをはじめ、ほかの製造業者も在庫圧縮に大苦戦しましたが、鈴木自動車の鈴木修会長だけは前年からの景気後退を見逃さず、早めに生産調整を行なっていました。
各社の首脳陣も、前年から販売が思わしくなく、データ上ではわかっていたといいます。しかし、それを決断するタイミングと実行力に差が出たとしか思えません。
トップの先見性、判断力、決断力が被害を最小限で食い止め、会社の危機を救うことになります。