父の白髪

赤尾は明治40年(1907)山梨県の生まれで、昭和6年(1931)東京外国語大学を卒業し、歐文社(現:旺文社)を設立した。
一世を風靡した受験生に人気の「まめ単」こと英語単語集の発案者であり、文化放送や日本教育テレビ(現:テレビ朝日)を創業し、放送大学の設立にも貢献した人物である。
また、全日本射撃選手権で優勝したのち、昭和29年(1954)は世界射撃選手権で銀メダルを獲るなど、珍しい経歴の持ち主でもある。
赤尾は、かなり大きな肥料商を営んでいた家の三男坊だった。父親はアメリカに長くいたため、田舎では稀なおしゃれな男だったという。母親は子ぼんのうで優しく、彼のヘタな悪筆を直すのに苦労していたが、13歳のときに亡くなった。
赤尾はかなりのいたずらっ子で、小学校5年のとき、こうもり傘の柄を銃身にして、それにカンシャク玉を利用する銃を作った。火薬は父親の金庫の中から失敬して、スズメ撃ちに興じたが、流れ弾が近所のガラスを割ってしまった。学校に連絡が行ったので、このときは両親が平身低頭して詫びてくれた。
しかし中学4年のとき、悪友たちと不法な魚とりを行なった首謀者の1人として、父親と一緒に校長室に呼ばれた。父親は教頭や担任教師のいる前で、息子の悪業を詫びながらポロポロと床に涙を流した。
さんざん油を絞られ始末書を書いたあと、2人は校門を出て日川の流れの土手に沿ってとぼとぼ帰ってきた。暑い日だった。これにより彼は学校処分を受け、中学を1年留年したが、この日の父親との対話が、彼の悪業を改ためる原点になったという。

「橋のたもとの土手に腰を下ろした。(中略)。横目に父の顔を見ると頭がもう半分ほど白くなっていた。それに父が気づいたらしい。『どうもこの頭の毛の半分はお前が白くしたのだな』と父はこういった。私は申しわけないと思った。『お父さん、そう心配しなくていいよ。僕もそのうちに必ずものになって見せるから・・・』というと、父は『まぁそう大言壮語しなくてもいいから、もう心配をかけるな。命が縮まるじゃないか』こういうのである。『それにしてもわしも子供の時ずいぶん行儀が悪くて先生にしかられたもんだが・・。母がよく学校へ一緒に謝りに行ってくれたものだ。因果はめぐるんだなぁ』こう言って父は深い嘆息をした。
私はこの父の白髪を見ながらどうもこう心配をかけては申しわけない、もうあまり悪業はしまいと心に誓ったのである」(「日本経済新聞」1972.8.28)
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私の息子が高校生のとき喫煙し、夫婦で学校に出頭を命ぜられたことがあります。
私が「仕事で忙しいので妻だけ行かせる」と答えると、学校側から「表彰のときは1人でもよいが、非行の場合は両親でないとダメ」と拒否されました。
校長室で息子と一緒に夫婦が校長・教頭から叱責と今後の注意を受けたあと、私は息子と2人で話し合いました。私も赤尾の父親と同様、初めて自分の過去の非行ぶりを話して聴かせ、心が通じ合った経験があります。
話し合いの目線は、高いところからではなく、子供と同じ境遇目線でないと通じにくいと、つくづく思ったものでした。