私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

愛は犠牲

俳優、演出家、歌舞伎役者。「猿翁」は隠居名で、49年間にわたって使い続けた三代目 市川猿之助としても広く知られる。

彼は1939年、東京で生まれ、三代目猿之助を襲名後ほどなくして祖父・初代市川猿翁(二代目市川猿之助)と父・三代目市川段四郎を相次いで亡くすという悲運に見舞われる。祖父譲りの革新的な芸術志向と上方歌舞伎伝統にあった早替わり・宙乗り・仕掛け物などを採り入れることによって歌舞伎界に新風を吹き込んだ。そして、スピード、スペクタクル、ストーリーの3Sを備えたスーパー歌舞伎を定着させた。

また、復活狂言の演出にも工夫を凝らした。欧米の演劇からヒントを得て、時間的には圧縮して、原作の倍以上の内容、量感、面白さを増幅させる趣向のひとつとして早替わりや宙乗りを用いた。そこには、映画の「E・T」や「インディ・ジョーンズ」、オペラの舞台、京劇との共演などからヒントを得て演出や役作りに生かしていた。スーパー歌舞伎の「新・三国志」では、スぺクタクルシーンの赤壁の戦いで巨船が折れて燃えながら沈むシーンは「タイタニック」から着想した。火事場の屋台崩し、本水使用の大立ち回り、京劇陣の超アクロバット技工の見せ場を盛り込み、歌舞伎史上初めてとなるオーケストラ演奏も取り入れた。スーパー歌舞伎が喜ばれるのは、①現代人にもわかる現代語採用、②ファッションショーのようなビジュアルなもの、③最先端の技術を使う、④主演と演出を兼ねる、などの要素で構成されている。

しかし、彼がこのような革新的な歌舞伎を創造し続けて行くには、これを支えてくれる同志であり、戦友が必要であった。それは、彼が12歳のころ六代目藤間勘十郎師に入門したときの家元夫人であり、彼より16歳年上の名舞踊家・藤間紫だった。彼は27歳の時、宝塚出身の女優・浜木綿子と結婚したが、1児をもうけて2年後に離婚している。その後、彼と藤間紫との同棲生活が始まり、それは35年にも及んだ。1985年に彼女が藤間勘十郎との離婚が成立したので、2000年、正式に結婚した。2003年に彼が脳梗塞を発症したとき彼女が献身的に介護をおこない、彼の舞台復帰を支えたが、2009年に彼女が肝不全のため85歳で死去している。彼は自分を支えてくれた藤間紫を次のように追悼している。

紫さんは踊りの師であり、猿之助歌舞伎の同志であり、公私ともに最高のマネジャーであり、頼もしい戦友であった。人生で最も大切なのは愛で、愛は犠牲だと教えてくれた。表に出ず「どんな悪者といわれてもかまわない。それよりも猿之助さんの信頼をなくしたくない」と口にしていた。(中略)
互の意思(遺志)を貫くため入籍は大切と考え、奮闘公演30回、猿之助130年の節目にあたった2000年に承諾してもらった。

それにしても、世間体もある16歳の年齢差を越えた二人の強固な結びつきは、新しい歌舞伎を創造するという共通使命に共鳴し合った形なのだろう。「愛は犠牲だ」は二人の強い同志愛の共通認識だった。


Posted

in

by

Tags: