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アサヒビールの社長に就任した樋口が、社内の反対を押し切って売れ残っていた古いビールをすべて店頭から回収・廃棄し、それが結果的にアサヒ再興につながった話は有名である。
樋口は大正15年(1926)、滋賀県に生まれた。昭和24年(1949)、京都大学を卒業し、住友銀行に入行する。同57年(1982)副頭取になるが、磯田住友銀行会長との意思の疎通がうまくいっていなかった。
住友銀行からアサヒビールには、3代続けて社長を送り込んでいたが、業績は回復せず、当時のシェアは過去最低の9・6%まで落ち込んでいた。磯田会長からアサヒビール転出の話があったとき、樋口は自発的に引き受けた。
そして、住友銀行退職の別れの挨拶で、銀行の役員、支店長を前に「香典をいただきたい」と切り出した。「自分と働いて楽しかった人は3万円、この野郎と思った人は厄払いとして1万5000円、なんとも思わない人は1万円」と言い、アサヒビールと討ち死に覚悟の意気込みを銀行員に披瀝したという。
岐路に立っていたアサヒビールを再生するため、売れ残ったビールの在庫をすべて処分し、全国の取扱店、顧客をまわり、生の声を謙虚に聞き、納得すべき点は即、それを実行に移した。
13年後、アサヒビールは奇跡の復活を果たし、45年ぶりにビール部門でトップに返り咲いた。社長初年目の重要仕事がこの得意先回りから始まったと、彼は次のように語っている。
「私は全国の得意先を回り、就任二カ月でいただいた名刺が二千五百枚を超えた。そんな社長はビール四社の歴史には珍しいと言われた。私は商家に生まれたので、心から頭を下げるのは当たり前のことであり、話を聞いて直すべきことはすぐ直す。相手の目の前で担当者に電話して指示をする。
その場でお客様に『やります』と言えば、一発で納得してくれる。『では帰りまして相談して・・』などと言う必要は全くない。ただし、どう考えてもできないことは『すみませんが、いまの段階ではできません』とはっきり申し上げた。私は朝から晩まで会社にいなかった。しかも、毎晩十一時になると、雨が降っても、どんなことがあっても、必ず小売店さんを十五~二十軒ぐらい歩いて回った。トップになった時こそ一兵卒の心と動きをしなければダメなんだ。銀行では私は下っ端の時から、頭取になったような話ばかりしてしていたと冷やかされたが、今度は逆にしてみただけのことである。」(『私の履歴書』経済人三十六巻 99P)
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営業の基本は「足で稼ぐ」ことです。これは、現場に行き、顧客ニーズをつかみ、消費者動向を皮膚感覚で知ることで商機を探ることを意味します。
この基本を、樋口は社長就任早々から精力的に率先垂範で実施し、全国の顧客、取扱店および自社の支店・営業所の人たちの心をつかみました。現場で問題を発見し、その解決の答えを教えてくれたという、好例です。