犬丸は、大正12年9月1日の開業披露当日、昼食に約500人の名士を招待して祝宴を張り、続いて演芸場で余興を公開するという順序になっていた。
彼は早朝から準備に忙殺されたが、正午少し前、客の来場を待つばかりとなったところへ、突然に大地震が襲来してきた。時に午前11時58分。地鳴りの音を聞いたと思った瞬間、足元を突き上げる激動を感じた。開業披露の当日大地震が発生するとは、なんたる運命のめぐり合わせであろうか。すべては天命なるかなと思ったという。
しかし、この災厄は同時にこのホテル建物の優秀さを実証する結果をもたらした。ホテルは倒壊を免れた。最初の激動の中で、犬丸は建物の倒壊についてはなんの不安ももたなかった。ホテルの窓ガラスは、それから続いた前後数十回の震動にも1枚も破損しなかったからである。
ここで犬丸は、ハッと厨房の火災発生を未然に防ぐ必要に気づき、次のようにすぐ行動を開始し、危機一髪で回避する。
「最初の震動が終わると、私は無意識のうちに料理場へ駆けつけた。料理人たちの姿は見えず、油の大なべをのせた電気ストーブが赤々と燃え、周囲には油が転々とこぼれて火焔を上げている。なべに火がはいったら万事休すである。私の叫ぶ声に応じて台の下から三人の菓子職人がはい出して来た。私は油滴の火を消すように命じ、壁のスイッチを切ったが、どうしたことかストーブが消えない。すぐメーン・スイッチを切らせてストーブは消えたが、同時に全館の電灯の灯が一斉に消えて暗くなった」(「私の履歴書」経済人四巻 420p)
犬丸はその後、一段落したので山下橋の方角へ出ると、東京電灯(現:東京電力)本社の窓から早くも黒煙が噴き出していた。
ここでこのホテルが焼失したら、彼の一生の間にはこのホテルは絶対に建築不可能だとの考えが閃光のように脳裏に閃いていた。消防の努力で東電本社の火をどうにか防ぐことができたが、今度は愛国生命のビルに火が移った。リレー式で水を運び宿泊旅客総出の協力を得て、ようやく愛国生命の建物も火難に遭うことなく焼け残ったという。
都内は一面凄惨なる火の海と化し、日比谷公園は避難する人であふれんばかりの状態を呈してきた。犬丸はこの危局に際し、独自の判断で宿泊客のすべてに対し、宿泊料を無料とし、外部からねぐらを求めてくる人も同様の取り扱いとした。
食事はシチューのような簡単なものを提供し、同時に付近の建物から避難してきた人にもたき出しを行なってにぎりめしを供し、非常に感謝されたという。
明けて9月2日、付近の火勢は依然猛烈をきわめ、多くの建物が順次焼け落ちてゆく。3日目に入ってようやく火災は大体終息した。
日比谷一帯は芒たる焼け野原となり、諸所には余燼がいまだ消えず、そのあいだを着のみ着のままの避難者の群れが右往左往するありさまは、まことに筆舌に尽くし難い惨状であったと語っている。
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今回の東日本大震災の発生時も、帝国ホテルでは関東大震災時の教訓が生きており、当日帰宅できなかった人や宿泊場所を確保できなかった人たち約2000名をホテル館内に留めさせ、スープや乾パンなどを提供したといいます。
ほかの都内の一流ホテルと評されているところも同様で、寝場所と食料を提供したと聞いています。
最悪の被害をもたらした関東大震災ですが、それにより学ぶこともまた多くあったのです。
この項では、記憶に新しい東日本大震災を念頭に、関東大震災について語っている「私の履歴書」を紹介しました。
関東大震災の震度6強の被害を参考に、これから起こる可能性の高い阪神大震災と同じ震度7の大震災について考えることの必要が感じられます。
首都圏の交通網の寸断、大火災や液状化、そして帰宅難民の大発生などの大混乱に、自治体や企業、家庭も備えておく必要を強く感じます。